大飢饉に見舞われて米価が高騰し、社会不安が深刻化するなかで、天保八年二月十九日大阪市中に大塩平八郎の乱が起きた。
大塩はもと東町奉行の与力で、今は隠居して洗心洞という学塾を開く身であった。たまたま天保七年の米価の高騰にあい、水野忠邦の弟で大阪東町奉行となっていた跡部良弼(よしすけ)が、大阪市中の米の不足をよそに、豪商と結託して江戸への回米に奔走しているのをみとがめる。そして跡部に窮民の救済を訴えてしりぞけられると、ついに大阪市中での決起を決意した。
彼は長年たくわえた蔵書を売り払って代金六二〇両を得、それをもって困窮の家一万軒に一軒あたり金一朱ずつを施行することにし、二月八日までに持ってくれば金に引き替える旨をしたためた引替切手を村々にまいた。ついで蜂起の直前には、「摂河泉播村々庄屋年寄百姓并小前百姓共に」あてた檄文(げきぶん)を門弟らの手で摂・河・泉在々にまいた。幕府と大阪の富商を糾弾し周辺農民に蜂起を呼びかけたものであった。
乱はあえなくわずか一日にして鎮圧されたが、幕府の西の守り大阪城下で、しかも旧幕吏によって起こされたこの乱は幕府に大きな衝撃を与えた。それだけに世情に与えた影響も大きく、全国各地に一揆や打ちこわしを誘発した。七月能勢郡に起こり市域にも波及した山田屋大助の乱もそのひとつである。平井村に残る記録には、大塩の乱について「大坂天満川崎ヨリ出火ニテ三歩斗火(ばかりやく)ル、此大火ニ付諸大名不残大騒キス、(中略)此出火大塩焼ニて江戸并近国諸大名騒ク事誠ニ軍(いくさ)ニ似ル」としるし、それに誘発されて起きた山田屋大助の乱についてもつぎのようにしるしている。
七月二日ヨリ以上五ヶ日之間摂州能勢郡山田村ヲ
初メ侍ヲ大将トシテ近村郡訴諸軍ニ似ル