天保八年(一八三七)七月一日ころ能勢郡今西村(能勢町)にある杵(きね)の宮(岐尼(きね)神社)の境内に何者かが集まったようであった。あとでわかったが、頭取ったものは五人、その筆頭は今西村にほど近い山田村の出身といわれる山田屋大助であった。彼は大阪にでて斎藤町篠原屋長左衛門借家で生薬屋(しょうやくや)をいとなみ、かたわら町人相手に柔剣術の師匠をしていたといわれる。杵の宮に来た彼は能勢大輔と名乗った。ほかに大阪津村中之町の但馬屋藤助は佐藤四郎右衛門と名乗り、江戸堀二丁目土佐屋藤蔵は蒲蔵人と名乗っていた。他のふたりは藤蔵日雇津平と遠藤但馬守組同心本橋岩次郎であったという。
二日には彼ら五人は帯刀して杵の宮で早鐘をついたところ、いずこともなく二〇人ほどがはせ参じたという。彼らはまず今西村の村役人宅へ行き家別に人足をだすよう命じ、一四、五人をださせたが、ついで稲地・平野・上杉村をはじめ近村一五ヵ村を回って農民およそ五〇〇人ほどをださせた。そして杵の宮にたむろして「徳政大塩味方」「徳政訴訟人」などと書いたのぼりなどを立て早鐘・太鼓をうちならして気勢をあげた。そして夜になると大きな家に押し入って米や金・銭・酒飯を強要した。
その間に大助らは能勢郡・川辺郡村々に「能勢杵の宮」の名で回状をまわし、各家からひとりずつ今晩中に杵の宮に参るように、もし遅参すればこちらから庄屋宅へおしかけて京都へ上る路用銀を借用にいく。早々にこの回状をまわし最後の村から杵の宮へもどすようにとしたためてあった。回状には趣旨説明のために、関白殿下にあてた口上書がそえられていた。それには「乍恐(おそれながら)奉願上限口上覚」と題しつぎのようなことが書かれていた。
数年米価は高騰し疫病が流行し餓死人がおびただしい。この春以来だけでも一〇〇人のうち二〇人がこじきになり、秋の取り入れまであと九〇日もあるから、この調子では一〇〇人のうち五〇人が餓死することは明白である。これでは田畑の耕作をつづけることもできない。だからなにとぞ一郡一国にあるすべての米をその郡、その国の総人数に平均に分配し、秋まで万人が生きながらえられるように天皇から命じていただきたい。つぎに、ここ数年諸物価が高騰し町でも村でも小前末々のものが困窮しきっている。今年たとい豊作になっても借金を完済することはできない。そこでなにとぞ諸国一統に徳政令をだしていただきたい。もし徳政なくしては小前末々のものは生きていけず、たちまちにして耕作をつづけることはできなくなる。そこでとくに天皇から諸領主に徳政のことを命じられるようお願いする、というものであった。
このような回状が川西市域を中心とする二〇ヵ村に一通、猪名川町域を中心とし市域の佐曽利村・大原野村を含む三一ヵ村に一通まわされている。おそらくほかに能勢町域の村々にもまわされたことであろう。
関白殿下を通じて朝廷に請願することを名分として人々を集めたわけであるが、三日には西進し、中山峠を越えて川辺郡北部にはいった。そして鎌倉村を経て杉生村におしかけ酒飯を要求し、さらに一〇〇人の人数を差しださせたうえ上佐曽利村におしかけてきた。その日はそこで宿泊した。そして四日には同村をはじめ下佐曽利・長谷・芝辻新田・境野村の農民をも加えて麻田藩領木器村(三田市)に至り光(興)福寺で昼食をとったが、ここで捕手に囲まれ大助らは八つ時(午後一時半ごろ)に制圧されたという。数百人の農民たちはたちまち四散した。大助は腰に銃弾をうけての切腹であった。彼を含めて五人が自刃したが、召し捕えられたもの一一人は八日に大阪へ連行されている。