乱鎮圧のあと

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 こうして朝廷への請願を果たすことなく乱は鎮圧されたが、その後取調べがおこなわれたとみえ、九月十日下佐曽利村は次のように報告している。村人三一人のうち一一人は途中から逃げ帰ったが二〇人が木器村までついていったこと、この三一人は現在村預けとなっており、うち二人は上佐曽利村庄屋の命令で三田へ火薬を買いに行ったことをとがめられ、現在他参止めとなっていること、などである。さらに大助についていった上佐曽利・下佐曽利・長谷・芝辻新田・境野村の農民たちに、九月十三日に大原野村の御用先まで出頭するよう回状が回されたことも知られる。
 翌天保九年十一月に至ってこの乱に関する賞罰がおこなわれた。判決はつぎのとおりである。
 ①能勢郡山田村粂蔵と長谷村粂蔵は一揆の企てに参加した生き残りとして、畿内その他指定した地方に立ち入ることを禁じる追放処分とする。②一揆に動員され参加した上佐曽利村ほか三二ヵ村の七一二人の農民(惣代上佐曽利村佐助ほか六人)は、本心から一揆に同意したわけではないが、悪党どもに付き従って徒党を組んで村々におしかけ乱暴を働いたことは不届きである。村高に応じ一〇〇石につき銭二貫文の過料を申し付ける。③彼ら農民を指図した上佐曽利村ほか三二ヵ村の庄屋・年寄は、出所・名前不明の回状がまわってくれば、本来ならこれをあやしんでさっそくその筋へ注進に及ぶべきところ、村々へ回状をまわし、また強制されたとはいえ人足を差し出したのは不調法である。庄屋には過料五貫文ずつ、年寄には三貫文ずつを申し付ける。④なかでも上佐曽利村庄屋惣右衛門は乱を頭取ったものを村境まで出迎えて万正寺に入り、命じられるがままに酒飯を差しだし農民を人足にだしたのは不届きである。所構い(所払い)申し付ける。⑤一方家をうちこわされながら一揆に加わらなかった能勢郡片山村の頭百姓定右衛門はほうびとして銀七枚を与え、その身一代帯刀御免、苗字永々御免とする。
 

写真215 興福寺(三田市)


 
 この乱は、朝廷への請願書にもあるとおり、小前末々のために一郡一国の米の均等分配によって大飢饉の窮乏から抜けでようとしており、明らかに世直しをめざす動きであった。しかし農民はまったく強制されてこれに参加したに過ぎず、みずからの意志で立ちあがったものではなかったから、ひとたび領主側の鎮圧にあうといっせいに四散して一揆は簡単に終息し世直しを実現するエネルギーとはならなかった。それにしても大塩の乱に誘発されてこのような乱が北摂にも起こったことは幕藩体制を動揺させる身近な事件として注目されるところである。