天保郷帳の作成

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 慶長十年(一六〇五)に国絵図の作成、正保年間(一六四四~四七)と元禄十年(一六九七)に国絵図ならびに郷帳の作成がおこなわれた。このことについてはすでに述べたが(二五〇・三二一・四〇六ページ参照)、元禄より一四〇年を経た天保期にふたたび国絵図ならびに郷帳の作成がおこなわれている。
 天保二年(一八三一)幕府は全国に国高取調べをおこなう旨を令達し、その調査結果にもとづき同五年郷帳を作成している。国絵図・郷帳の作成は老中の命によって勘定奉行が担当したので、同年十二月の日付がある摂津国郷帳の奥書にも勘定奉行明楽(あけら)飛驒守茂村および牧野中務・柑本兵五郎の名が連ねられている。
 いまこの天保郷帳にしるす村高を享保二十年(一七三五)の「摂津国石高調」にしるす村高ならびに明治二年(一八六九)の「旧高旧領取調帳」にしるす村高と並記すれば表72のとおりである。元禄郷帳には村高の記載がないため、仮に享保二十年の石高を掲げたわけであるが、享保・天保・明治の三者を比較すると、享保以降村々の石高にほとんど変化はみられず、変わっている場合でも一石未満の違いしかないことがわかろう。もちろん村高に変化がないからといって、この間に新田開発がなかったわけではない。新田高はそこを領有する大名からそれを本田高に繰り入れることを申請しないかぎり、幕府の郷帳には載せられない。だから村高に変化がないことは、この間に本田高について検地のやり直しがおこなわれなかったことをしめすものといえる。
 

写真216 天保5年摂津国郷帳(国立公文書館所蔵)