表72 近世後期・明治初年における市域村々の村高
村名 | 享保20年 | 天保5年 | 明治2年8月 | ||
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村高 | 郷帳村高 | 村高 | 支配 | ||
<武庫郡> | 石合 | 石合 | 石合 | ||
伊孑志 | 249.978 | 249.978 | 249.978 | 尼崎藩 | |
小林 | 874.496 | 875.432 | 875.432 | 〃 | |
蔵人 | 576.196 | 576.196 | 576.196 | 〃 | |
鹿塩 | 277.961 | 277.9061 | 278.1771 | 〃 | |
<川辺郡> | |||||
上佐曽利 | 321.350 | 321.715 | 321.715 | 兵庫県 | |
200.615 | 202.283 | 200.927 | 〃 | ||
下佐曽利 | *1.356 | *1.356 | |||
長谷 | 318.226 | 321.595 | 318.226 | 〃 | |
*3.369 | *3.369 | ||||
芝辻新田 | 39.352 | 39.352 | 39.352 | 〃 | |
大原野 | 736.953 | 744.103 | 737.153 | 〃 | |
*6.950 | *6.950 | ||||
波豆 | 448.324 | 448.324 | 448.324 | 麻田藩 | |
境野 | 218.556 | 221.702 | 218.854 | 兵庫県 | |
*2.848 | *2.848 | ||||
玉瀬 | 129.691 | 129.691 | 128.599 | 〃 | |
*1.092 | |||||
切畑(北畑) | 84.251 | 84.293 | 84.293 | 〃 | |
南切畑(南畑) | 156.841 | 156.937 | 156.937 | 〃 | |
北畑 立合新田 南畑 |
42.683 | 42.683 | 42.683 | 〃 | |
<武庫郡> | |||||
川面 | 613.696 | 613.696 | 613.696 | 篠山藩 | |
見佐 | 8.630 | 8.630 | 8.630 | 兵庫県 | |
<川辺郡> | |||||
安場 | 66.174 | 66.794 | 66.794 | 一橋 | |
.620 | |||||
440.139 | 440.139 | 小泉藩 | |||
米谷 | *.395 | 640.139 | |||
200 | 200 | 飯野藩 | |||
小浜 | 92.828 | 92.828 | 92.828 | 一橋 | |
405.561 | 405.561 | 田安 | |||
安倉 | *.253 | 1,447.647 | *.253 | ||
1,040.237 | 1,041.833 | 一橋 | |||
中山寺 | 141.108 | 141.108 | 141.108 | 〃 | |
中筋 | 641.858 | 644.665 | 644.665 | 渡辺知行 | |
山本 | 1,000 | ||||
13.3157 | 1,013.3157 | 1,013.315 | 一橋 | ||
平井 | 270.020 | 270.020 | 270.020 | 〃 |
〔注〕1.*は除地商、本高の下に印なしで付した村高は新田高である
2.近世初頭における村高は308ページ表43に掲げた
摂津の国絵図は元禄のときのやり方に準じて、高槻・尼崎・三田の三藩に作成が命じられた。三藩は郡別に分担する地域を含めて作成にあたった。分担はつぎのとおりであった。
高槻藩 東成郡 住吉郡 島上郡 豊島郡
尼崎藩 西成郡 川辺郡(南半の平野部) 武庫郡 菟原郡 八部(やたべ)郡
三田藩 能勢郡 川辺郡(北半の山間部) 有馬郡
市域南部の村々は尼崎藩、市域北部西谷地区の村々は三田藩の担当するところとなったわけである。
尼崎藩では御国絵図掛り役に郡代内田助左衛門・堀杢左衛門・後藤佐兵衛と勘定吟味役戸塚治太夫の四人を任命した。そして天保八年二月十九日、この日はちょうど大塩平八郎の乱が起きて尼崎藩は大阪への出兵と人足派遣のことなどで大混雑していた日であるが、その混雑のなかで、出頭してきた領内(播磨の飛び地を除く)の全大庄屋に対して国絵図作成のことを伝えた。そしてかつて元禄十年に幕府が郷帳の作成を命じてから年月を経たので、それ以後道筋・海岸通・川筋・新田村そのほかについて土地の様子に変わったところがあれば、三月十五日までに報告するように、村名・地名などが変わっているところも報告するように命じた。このときの令達は尼崎藩領の大庄屋だけをよんでの指示であったが、もちろん尼崎藩領以外の村々も調査範囲であったので、他領にもほぼ同じ時期に同じ令達がおこなわれ、村々からは変化の有無について報告がなされたものと思われる。
つぎに川辺郡の北部を担当した三田藩でも、御国絵図掛り役早崎佐左衛門・越賀弥市郎・前田継太郎の名で二月二十日幕府からの達し書を添えて尼崎藩とほとんど同文の回状を村々に回した。三月十五日までに報告を求めたことも同様であった。