天保国絵図の作成

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 ついで天保七年三月老中の命をうけて勘定奉行明楽飛驒守茂村および大沢主馬・中川忠五郎が国々に国絵図改正のことを令達した。元禄の国絵図・郷帳の作成以来年暦がたったので、さきに郷帳を作成したのにつづいてここに国絵図の改正を命じる。元禄の国絵図の写しを渡すので、この絵図のうえに掛け紙をして、その紙に道筋や海岸通・川筋・新田などで変わったところがあればもらすところなく修正して差しだすように、という達しであった。
 

表72 近世後期・明治初年における市域村々の村高

村名 享保20年 天保5年 明治2年8月
村高 郷帳村高 村高 支配
<武庫郡> 石合 石合 石合
伊孑志 249.978 249.978 249.978 尼崎藩
小林 874.496 875.432 875.432
蔵人 576.196 576.196 576.196
鹿塩 277.961 277.9061 278.1771
<川辺郡>
上佐曽利 321.350 321.715 321.715 兵庫県
200.615 202.283 200.927
下佐曽利 *1.356 *1.356
長谷 318.226 321.595 318.226
*3.369 *3.369
芝辻新田 39.352 39.352 39.352
大原野 736.953 744.103 737.153
*6.950 *6.950
波豆 448.324 448.324 448.324 麻田藩
境野 218.556 221.702 218.854 兵庫県
*2.848 *2.848
玉瀬 129.691 129.691 128.599
*1.092
切畑(北畑) 84.251 84.293 84.293
南切畑(南畑) 156.841 156.937 156.937
北畑 立合新田
南畑
42.683 42.683 42.683
<武庫郡>
川面 613.696 613.696 613.696 篠山藩
見佐 8.630 8.630 8.630 兵庫県
<川辺郡>
安場 66.174 66.794 66.794 一橋
.620
440.139 440.139 小泉藩
米谷 *.395 640.139
200 200 飯野藩
小浜 92.828 92.828 92.828 一橋
405.561 405.561 田安
安倉 *.253 1,447.647 *.253
1,040.237 1,041.833 一橋
中山寺 141.108 141.108 141.108
中筋 641.858 644.665 644.665 渡辺知行
山本 1,000
13.3157 1,013.3157 1,013.315 一橋
平井 270.020 270.020 270.020

〔注〕1.*は除地商、本高の下に印なしで付した村高は新田高である
   2.近世初頭における村高は308ページ表43に掲げた


 
 摂津の国絵図は元禄のときのやり方に準じて、高槻・尼崎・三田の三藩に作成が命じられた。三藩は郡別に分担する地域を含めて作成にあたった。分担はつぎのとおりであった。
 
  高槻藩  東成郡 住吉郡 島上郡 豊島郡
  尼崎藩  西成郡 川辺郡(南半の平野部) 武庫郡 菟原郡 八部(やたべ)郡
  三田藩  能勢郡 川辺郡(北半の山間部) 有馬郡
 
市域南部の村々は尼崎藩、市域北部西谷地区の村々は三田藩の担当するところとなったわけである。
 尼崎藩では御国絵図掛り役に郡代内田助左衛門・堀杢左衛門・後藤佐兵衛と勘定吟味役戸塚治太夫の四人を任命した。そして天保八年二月十九日、この日はちょうど大塩平八郎の乱が起きて尼崎藩は大阪への出兵と人足派遣のことなどで大混雑していた日であるが、その混雑のなかで、出頭してきた領内(播磨の飛び地を除く)の全大庄屋に対して国絵図作成のことを伝えた。そしてかつて元禄十年に幕府が郷帳の作成を命じてから年月を経たので、それ以後道筋・海岸通・川筋・新田村そのほかについて土地の様子に変わったところがあれば、三月十五日までに報告するように、村名・地名などが変わっているところも報告するように命じた。このときの令達は尼崎藩領の大庄屋だけをよんでの指示であったが、もちろん尼崎藩領以外の村々も調査範囲であったので、他領にもほぼ同じ時期に同じ令達がおこなわれ、村々からは変化の有無について報告がなされたものと思われる。
 つぎに川辺郡の北部を担当した三田藩でも、御国絵図掛り役早崎佐左衛門・越賀弥市郎・前田継太郎の名で二月二十日幕府からの達し書を添えて尼崎藩とほとんど同文の回状を村々に回した。三月十五日までに報告を求めたことも同様であった。