さて尼崎藩領であった伊孑志・小林・蔵人・鹿塩の四ヵ村は同藩の瓦林組大庄屋から、国絵図を作成するので地形の変化の状況を報告するよう求められた。
小林以下三ヵ村はとくに変化がなかったようであるが、伊孑志村からは三月九日見佐村の状況と合わせて、大庄屋につぎのような回答がなされている。伊孑志村は元文五年(一七四〇)の武庫川の堤切れで田地の大半が流失し、川向かいに代地二五町歩をもらったこと、見佐村は人家が流失して今は小浜村地内に住んでおり、氏神も四、五十年前までは武庫川右岸のもとのところにあったが、これも今は川面村田地つづきの見佐村代地に移転していることが報告された。そのうえで伊孑志・見佐両村は連名して両村付近をえがいた墨引粗絵図を提出している。
他の村々の報告の模様はわからないが、右のような村々からの報告を高槻・尼崎・三田の三藩がまとめて摂津国絵図に仕立てたことであろう。
今、できあがった天保国絵図をさきの元禄国絵図と比較してみると、村の位置や郡境の線、道筋・一里塚・河川・池などにはほとんど変化はないが、当然のことながら、村名の左にしるしている村高およびその郡別の集計高は天保郷帳にしるす高に改められている(川辺郡六万六六五石七斗四升七合七夕・武庫郡弐万三五七一石七斗三升九合三夕)。ただ問題は見佐村のことである。同村からは、村が武庫川左岸に移ったことが墨引粗絵図を付して報告されているのであるから、当然同村の位置は天保国絵図で書き改められてしかるべきである。ところがこの国絵図ではなお村の位置がもとのまま(右岸)となっている。これは理解に苦しむところである。