中山寺巡見と天保九年の諸国巡見

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 幕府が諸国の状況を巡察するため将軍の代がわりごとに御料巡見使・私領巡見使を派遣することが恒例化して天保までにすでに数代を経たが(四〇八・四八七ページ参照)、この諸国を巡見する巡見使のほかに、摂津の特殊性として、大阪在勤の大阪城代・大阪町奉行の巡見が近世中期・後期にはいくたびかおこなわれている。市域に足をのばしたこの種の巡見としては、文化八年(一八一一)の大阪東町奉行の巡見、天保四年(一八三三)の大阪城代の巡見が知られる。
 すなわち文化八年三月二十三日大阪東町奉行平賀信濃守貞愛(さだえ)は与力・同心らおよそ一一〇人余りをひきつれて大阪を出発、神崎・伊丹を経て中山寺に参詣、そのあと満願寺・多田院に参って平野村(川西市)多田温泉の湯元で一泊した。翌日は久安寺(池田市)に参詣して池田から大阪に帰着している。
 もう一例、大阪城代松平伊豆守信順が天保四年五月三日大阪を出発して十三(じゅうそう)渡しを渡り昆陽池のほとりを通って中山寺に参詣した。終わって伊丹から帰阪している。
 巡見とはいえ、いずれも寺社への参詣であった。この種の巡見としてはとくに多田院への社参が多く、多田院へは歴代というほどではないが、わかっただけでも天明八年(一七八八)以降九人の大阪町奉行が巡見という名目で社参し、あるいは土砂留状況巡見の途次などに社参している。
 つぎに一一代将軍家慶の代の御料・私領巡見使の派遣は天保九年におこなわれた。まず御料巡見使勘定衆武島八重八以下の一行は四月丹波から摂津能勢郡にはいり、十九日に同郡片山村に泊り二十日には民田・内馬場村を経て多田院に社参したのち池田にでて宿泊した。そして二十一日に池田から湯山へ向かって市域を通過している。たんなる通過であった。
 ついで私領巡見使山本七郎左衛門以下の一行は京都から丹波・丹後・但馬・播磨を巡見し閏四月摂津にはいった。兵庫・西宮に泊ったあと、七日に市域にはいり、いわばおきまりのコースで尼崎藩領鹿塩・蔵人・小林・伊孑志を通り、武庫川を渡って一橋徳川氏領小浜を経て大和小泉・上総飯野両藩相給の米谷村に至って休んでいる。そのあと一橋徳川氏領安場村・篠山藩領川面村を巡見して生瀬から湯山に至っている。右の市域村々はいずれも巡見の対象となったはずである。しかしその様子は明らかでない。そのあと三田に宿泊、おそらく市域の北部波豆・大原野を通って広根に抜けたと思われ、池田に至って泊っている。波豆村は麻田藩領であるのでこのとき巡見をうけたと思われる。
 巡見の様子は明らかでないが、世情騒然とした時期の直後だけに、巡見にさいしてもいろいろと配慮するところがあったであろう。