この天保の上知令の対象となったのは、北摂・西摂では能勢郡を除く豊島・川辺・武庫・菟原・八部・有馬の諸郡にある旗本領および大名の飛び地であった。市域についていえば、私領としてまず尼崎藩領の伊孑志・小林・蔵人・鹿塩村、麻田藩の波豆村があるが、地元摂津の大名の所領であり公収の対象にはならなかった。また市域には一橋徳川氏領が六ヵ村(安場・小浜・安倉のうち・中山寺・山本・平井)、田安徳川氏領が一ヵ村(安倉のうち)ある。すでに述べたように一橋徳川・田安徳川両氏は大名ではなく将軍家の家族として御賄料を与えられていたものである(四四〇ページ参照)。だからその所領はもちろん上知の対象とはならなかった。
以上の村々のほかに、市域には私領が三ヵ村あった。丹波篠山藩領の川面村、大和小泉藩と上総飯野藩が相給で領有した米谷村、旗本渡辺氏知行の中筋村である。この三ヵ付が今回の上知の対象となっているのである。飯野藩保科氏の場合、摂津には豊島・川辺・能勢・有馬の四郡にわたって所領(飛び地)があったが(二九〇ページ表39参照)、そのうち豊島・川辺・有馬の三郡にある村々が上知の対象となった。小泉藩片桐氏は川辺郡に飛び地二ヵ村を領有していたが(二六九ページ表27参照)、これが上知の対象となったことは、後述するように、閏九月にこの村が上知中止の通知をうけていることから明らかである。
旗本渡辺氏の知行した中筋村には、天保十四年八月付の村明細帳が残っており、その奥には「大坂御城拾里四方、居所大名之外私領之分上地被仰出、大坂両御代官筑(築)山茂左衛門殿・竹垣三右衛門殿御立会」云々としるされている。この明細帳は上知の準備のために作成されたものと考えられ、右の記述と考え合わせて、この村が上知の対象となったことが推察される。
篠山藩青山氏領川面村については公収されることになったことをしめす確証はない。しかし上知村々には築山・竹垣両代官立会役所から年貢割付帳・高反別書上帳・村絵図・免状・村方貯穀調帳などの提出が求められていること、そして川面村には、中筋村と同じように天保十四年七月の村明細帳、八月の「差出目録帳写控」が残っていること、このふたつの事実を考え合わすとき、川面村も上知の対象となったことと推察される。