さて上知令がだされたあと、七月四日には、公収されることになった村々はすべて築山茂左衛門・竹垣三右衛門両代官の立会預かり所に編入されることが伝達された。同時に村々は年貢割付帳などの書類(右の川面村上知のところで列挙した)を作成して提出すること、上知される村の天保十四年の年貢は旧領主に下付されることが達せられた。そして九月にはいると両代官立会役所は、いよいよ閏九月十三日に書類を審査し上知村々の引渡しをうける旨の通達をだし、着々と上知に向かってことを進めている。
ところがそのあとを追って九月七日付老中土井利位(としつら)の触書がだされ、さきに発した上知令を撤回しもとの支配にもどす旨の将軍の命令が達せられたのである。このような政策の転換はいうまでもなく幕閣内部における政変によってもたらされた。老中水野忠邦罷免という事態はけっして今回の上知令のみに原因が求められるものではないが、上知令を契機に政変が起き、政変によって上知令が撤回されたことにはまちがいない。
いま上知令撤回に至った事情についてみると、豊かな大阪周辺の飛び地を取り上げられた大名・旗本がこの上知令を歓迎しなかったことはもちろんである。が、それ以上に農民・町人の反対運動が上知令撤回に強い影響を与えているということができる。農民・町人はこれらの大名・旗本に多くの先納銀や調達銀を納めていたから、公収によってこの金が回収不能となることを心配して上知反対に決起しているのである。老中土井利位についてみても、彼は摂津に二一ヵ村、一万二八八四石余の飛び地をもっていたが、これらの村々が公収されることに決まると、村々は数次にわたって公収反対の嘆願をおこなっている。それは摂津・播磨の村々が二三九三貫余にものぼる調達銀を土井に貸しており、上知によってその金が回収不能となることを心配したからである。さきに上知令をたすにあたって率先して飛び地の上知を願った土井が身をひるがえしてこんどは上知反対をとなえ、反水野忠邦派に擁立されて上知反対の盟主となっているが、土井のこのような変身には、自領における事情の影響があったのである。