上知令の撤回は領主・農民のともに歓迎するところであった。
小泉藩片桐氏領米谷村(大部)は天保十四年閏九月二十三日大阪から上知沙汰止みの通知をうけ、さっそく小泉役所に書状をおくり「御代万々万歳 不易之御領分と相成冥加至極、難有仕合奉存候」と述べ、すぐにでも参上してお喜びを申し上げるべきところであるが、まだ片桐様からお指図をうけていないので、とりあえず書付をもってお喜び申し上げると申し添えている。
その後お喜びのしるしとして大庄屋塚本忠右衛門(米谷村)から酒を進上したとみえ、片桐氏から大庄屋に対して自詠の和歌をしるした盃が下賜されている。つぎのように書かれていた。
旧址を復し賜る時、村長のよろこひて明の鶴といへる酒を進めけるに
こころさしくむさかつきも有明の鶴は雲井に万代の声
遊 斎
飯野藩保科氏領村々でも旧領復帰の喜びのしるしとして、米谷村を含む川辺郡村々から米二〇石、豊島郡村々から三五石、有馬郡村々から一〇石を献上した。これに対して保科氏からは御酒料の金が下付されている。
中央集権的な権力の行使者であることを誇示しようとした上知令を、大名・旗本・農民の反対をうけて撤回せざるをえなかったことは幕府の威信失墜もはなはだしいことで、まさに幕府の封建制のゆるぎを暴露するものであった。