米谷村出荷物差止め争論

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 このような幕府威信の低下は民衆の力の成長とともにあらゆる面にあらわれてくる。ここでは宿駅制度・株仲間制度の動揺の面からそれをうかがってみよう。
 まず小浜駅と隣村米谷村との米谷村出荷物をめぐる争論について述べる。文化十三年(一八一六)十一月六日小浜駅は米谷村につぎのように通告している。米谷村の米屋たちが丹波・播磨奥筋の米や綿・木柴を取り扱い、駅所の問屋まがいの営業をしているのは小浜駅の問屋にとって迷惑であるとして、今後は米谷村の出荷物は小浜で差配するというものであった。そして同月十八日には、米谷村の米屋慶蔵ら四人の米屋が、雇った牛で米二〇石を運びだそうとしたところ、小浜駅でそれを差し止め駅所で継ぎ立てると主張した。ついで二十七日には小浜駅は米谷村を相手取って訴訟に持ちこんでいる。米谷村のものが奥筋からでてくる諸荷物を取り扱い、問屋類似の仲買行為をし、無役の牛を日々数十匹も雇って伊丹・池田・西宮へと荷物を付け送り、駅所を付け破っている、として訴えたのである。
 これに対して米谷村は十二月二十一日反論している。今までなにごともなく奥筋と米穀・木柴などを取引し大名の御米の買請けもやってきたのに、今さらそれを差し止められるのは納得できない。従来どおり米谷村の雇った牛を通すよう訴えるというものであった。
 この争論は取噯人を入れて交渉が進められたが、なかなかまとまらなかった。十四年三月には米谷村の出荷物を積んだ牛は今まで小浜駅に八文(木柴は四文)を払って付け通してきたが、さらに三文を加えて一一文にして和解してはとの仲裁案がだされている。米谷村は、川面・安場の出荷物も日々小浜駅を付け通っているのに、米谷村だけ三文多く付通し口銭(打越口銭)を払うのは納得できない。ただし他村も一一文支払うことにするなら承知する。川面・安場・米谷あたりからの出荷物は年間五万駄ほどもあるので、三文増しとなれば年間一五〇貫文の収入増となり小浜駅も都合よいのではないか、とした。しかしこのときは小浜駅が拒否して和談が成らなかった。
 

写真221 空よりみた小浜・米谷付近


 
 その後一、二の仲裁案が出されたがまとまらず、結局事件が起きて二年後の文政元年(一八一八)十一月につぎのような案がだされている。米谷村の出荷物のうち毎日四〇駄は米谷村が雇った牛で八文の口銭を支払って小浜駅付け通しを認める。これを越える荷物は小浜の駅所で継ぎ立てる。奥筋からの荷物を蔵敷賃をとって米谷村が引き受けることは禁止するというものであった。
 しかしこの案でも話はまとまらなかったようである。その後この争論がどう決着したかについては明らかにすることはできないが、この争論は駅所が退勢ばんかいをはかって起こした事件であり、幕府によって権利を保障された宿駅が駅所でない村の商業活動に押しまくられ、宿駅制度の正規の運営ができなくなりつっあったことを知らせるものである。