それにしても、米谷村の商業活動はまだ付通し口銭を支払って駅所を通るという、いちおう駅法、秩序を守っての活動であった。しかし近世後期には、その限度を越えて、駅所の特権を完全に無視して宿駅制をつきくずす行動もしだいに多くなっているのである。
奥筋から大阪方面へとでてくる荷物は道場河原から生瀬もしくは小浜へと継がれてきたが、文化(一八〇四~一七)ごろからたびたびこのルートを無視して、六甲山の間道を抜けて灘筋へと荷物を運び出し、そこから舟で大阪・江戸へ輸送すること、あるいは逆に海岸の物資が六甲山の間道を奥筋へと運ばれることが多くなっているのである。舟坂から西宮へ抜ける舟坂間道、湯山(有馬)から青木(あおぎ)(神戸市)もしくは岡本・住吉村へ抜ける湯山間道、唐櫃(からと)から乙ヶ平を経て御影・石屋・東明(とうみょう)村(以上神戸市)へ抜ける唐櫃越間道がその主な間道であった。
しかもこのような駅法に違反する間道通過を、農民だけでなく、ときには領主もやりはじめていることが注目される。すなわち有馬郡に所領をもつ田安徳川氏が宿駅の特権を破り、間道通過で安あがりに貢租米を輸送していた事実が摘発されているのである。
かように特権的宿駅制度がくずされる現象は、小浜駅周辺でも起きている。たとえば天保十四年(一八四三)に荒牧村(伊丹市)の牛が、また嘉永三年(一八五〇)には中筋村の牛が生瀬の米荷物を伊丹へ送るのに小浜駅を通らず、米谷村六軒茶屋から細い道を北西へとって巡礼街道を中山寺に抜け、伊丹へと運んでいたことが摘発されている。農民的商品流通の進展とともに、間道通過を禁止する正徳以来の駅法(四〇三ページ参照)がもはや無視されるようになり、近世後期には六甲山間道の違法通過と同じ風潮が小浜駅付近の村でも高まっていたことがわかろう。また宿駅制度においても幕府の威令がおこなわれなくなったことを知ることができよう。