綿国訴の勝利

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 つぎに農民勢力の高揚とともに株仲間制度にも動揺の傾向があらわれてくることについて述べよう。一八世紀後半、農民が生産した綿・菜種などの商品作物に対して、幕府の株仲間による流通統制が強まるにつれて、しだいに摂津・河内地方の農民が数十ヵ村、数百ヵ村と結集して陳情闘争を展開するようになった。このことについてはすでに前章で述べたところである(五二二ページ参照)。そしてこの農民闘争は一九世紀文政六年(一八二三)の時点に至って千何ヵ村という、まさに国訴というにふさわしい規模にまで高揚するのである。
 まず綿についてみるならば、すでに寛政年間に問題になっていたが、他国商人は大阪綿市問屋(株仲間)の特権にさまたげられて、摂津・河内の農民ないし在郷商人から綿を直買できなくなり、綿を買ってもいったん大阪綿市問屋の浜先まで綿を積みだし問屋に口銭を払ったうえでないと船積することができないようになっていた。つまり大阪綿市問屋が摂・河村々の綿を他国へ独占的に積みだす権利を主張するまでに独占権を強めていたのであった。このような事態となって、自然、農民の綿の販売が不自由となったので、大阪綿市問屋の独占に反発して、ついに文政六年一〇〇七ヵ村の国訴が展開することになる。この一〇〇七ヵ村のなかに市域南部の綿作農村、とくに平井村以下の一橋徳川氏領西組の村々も参加していた。
 まず五月十三日摂・河七八六ヵ村の惣代六三人が連印して「実綿売捌(さねわたりうりさばき)方手狭ニて難渋仕候ニ付手広ニ相成候様歎御願」と題する訴状を提出した。それには綿の売買が不自由になって農民がしだいに難渋している模様を伝えたうえ、末尾に「三所実綿問屋株御取放し」を願っている。つまり幕府の株仲間制度の否定を要求した点がきわめて注目されるのである。しかしこのような要求はとうてい幕府が受理できないものであった。そこで七八六ヵ村は要求受理をはかるために「三所実綿問屋御取放し」の個所を、農民が自由に「近国他所へ直売・直船積」できるようにされたいという趣旨に文を改め、五月二十五日再度提出するにいたっている。その後さらにこの部分を、以後綿市問屋が農民の綿販売を妨げないようにという意味の、きわめて抽象的な要求文面に改めて提出している。幕府に訴願を受理させるために要求内容をしだいに後退させたわけである。しかしそうすることにょって、闘争は一〇〇七ヵ村にまで規模を拡大することができたし、今まで受理を拒否していた幕府にこの国訴状を受理させることに成功するのである。
 こうして一〇〇七ヵ村の国訴が受理された結果、六月二十八日には三所綿市問屋も村々の訴願に回答せざるを得なくなっている。そして結局摂・河在々において農民が綿を他国商人に直売・直船積することを三所綿市問屋は制約しないと答えることになっている。いいかえれば綿市問屋は寛政以来摂・河在々に拡大してきた独占権を放棄することを承諾し村々の訴願に対して大幅に譲歩したわけである。ここに三所綿市問屋の独占強化によってその手先としてしか活動を許されなくなっていた在々の実綿買集め商人や他国商人に直買・直船積の自由は回復され、これによって農民は他国商人にも、そしてだれにでも綿を自由に売買できるようになったのであった。綿の国訴の大きな勝利であった。