この綿の国訴の高揚と時を同じうして文政六年六月十三日摂津・河内一一〇二ヵ村の菜種・油に関する国訴が展開されている。この訴願にも市域南部の村々が参加したが、まず菜種の訴願としてはじめて一〇〇〇ヵ村を越える大きな結果となっていることが注目される。要求内容はさきに述べた寛政十年の川辺・武庫・豊島郡三四ヵ村の訴願において農民が求めていたと同じく(五一八ページ参照)、種物の質入れ・干鰯屋売り、在々絞り油屋からの油の直買の許可を求めるものであった。
幕府は例によってこの要求は株仲間制度をくずし定法にそむくものとして訴願の願下げを要求した。ところが農民側はこれにこりず六月十八日には摂・河一一七九ヵ村の訴願として、ふたたび右とほぼ同じ文面で要求をくりかえし、これがまた願下げを命じられると、翌文政七年四月には和泉の村々をも加えて一四六〇ヵ村の訴願を提出する。闘争規模の拡大が注目されるが、ここにいたって幕府はついに幕府の定法をくずす内容であるにもかかわらず、これをいったん受理し公式に審議することを余儀なくされていく。すなわち幕府は大阪の絞り油屋仲間・油仲買仲間(株仲間)を呼びだし、国訴状に対する仲間の見解を回答するように命じているのである。
しかし仲間の回答は農民の要求に対して反論し水掛け論に終わるものでしかなかった。しかも農民側は幕府から定法にそむく要求を願下げるよう求められ、結局またそれをのむことになってしまった。統制の強い菜種・油だけに文政段階ではまだやむをえない事態であったと思われる。だが、それにしても、国訴闘争が規模を拡大したこと、幕府をして定法にそむく内容の訴願を受理し審議することを余儀なくさせ、また株仲間に回答させるにいたった点、そしてまた幕府が一方的に訴願を却下するのでなく、農民に願下げさせるという方法しかとれなくなった点で、農民の国訴闘争はいちだんと高揚したものということができよう。流通統制の面においても、幕府の威信はしだいに農民勢力の高揚によってゆるがされはじめていたのである。