なおもうひとつ文政期の訴願について付け加えるならば、文政十年(一八二七)油屋名代と称するものたちが買い値段を申し合わせて格別に安い値段で菜種を買い集めはじめたことが問題となった。彼らは灘の絞り油屋の代表(油稼請負人)が発行した「油屋名代」の印札をもっていたが、武庫郡五三ヵ村・菟原郡二二ヵ村・八部郡一〇ヵ村はこれをとがめ、油屋は菜種を直買しなければならないと規定している幕法にそむく行為であるとして、油屋名代の廃止を訴願した。絞り油屋も村々の要求を認め、さっそく印札を引き揚げてことが解決した。
これより先文化二年(一八〇五)にも、灘の絞り油屋たちが目代・手先仲買をつかって菜種を不当に安く買い取ったため武庫郡五六ヵ村・菟原郡一〇ヵ村の訴願にあい、それを廃止したことがあった。文政十年の訴願には川面・伊孑志・小林・蔵人・鹿塩村も武庫郡村々のなかに加わっており、村数を比較して、文化二年の訴願にもこれら市域の村々が参加していたことが推察されるが、それはともかくとして、このような化政期の訴願はやがて天保期に在々絞り油屋の禁止、株仲間の否定を求める訴願にまで発展するのであり、その先駆として注目されるところである。