在郷商人の成長

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 近世、商品流通が進展するにつれて、流通をになう商人として一七世紀から一八世紀前期にかけては大阪の商人や池田・伊丹・西宮など在郷町の商人がいた。その後成長してきた在郷商人は都市・在郷町商人の経済的支配下におかれる存在ではあったが、都市・在郷町商人に対抗し農民が生産した作物の販売、農業経営の発展に有利な環境をつくりだす役割をはたした。
 市域における在郷商人の状況についてはさきに明和四年(一七六七)の米谷村の場合を表68(四九八ページ)にしめしたが、これは街道筋の村であるため、米商人などとくに大きな発展がみられた例である。ここではさらに街道筋の村の例として一九世紀(年次不明)の川面村、およびごく普通の村の例として下佐曽利村の天保十三年(一八四二)における農業外余業をしめすと表74・75のとおりである。やはり街道筋の川面村農民の商業活動の方が多彩であるが、下佐曽利村については菜種商売を営むものが五人もいることが注目される。また山間部の村であるため、木挽職・大工職などの職人の存在もめだつ。この村にはすでに寛政十一年(一七九九)に、菜種商売五人・木挽五人・大工二人・博労一人・古手商売二人・医師一人がいたし、隣村長谷村にも同年に木挽五人・大工二人・小間物商一人がいたことが知られている(四四五ページ表62参照)。この寛政と天保(表75)を比較すると、時代がくだるにつれて農業外余業が多岐にわたって展開し在郷商人の活動がいっそう進んだことを推察することができる。
 

表74 川面村農民の農業外余業

余業軒数
酒造商売1
酒・醤油小売1
酒・酢小売、荒物売買1
酒小売、荒物売買1
荒物商売2
雑菓子売買1
煙草商売1
薪木商売1
呉服物商売1
紺屋商売1
傘商売1
旅宿屋商売1

〔注〕年次不明であるが、19世紀前期と思われる


 
 ただ菜種の商いについていえば、寛政九年令によって、農民が菜種を干鰯屋に売ったり質入れすることが強く取り締まられ、売り先は絞り油屋(株仲間)にかたく限定されるようになった(五一七ページ参照)。だから寛政九年令以後は無株の在郷商人が菜種を商う余地はないはずである。表75の天保十三年の場合は株仲間解散(天保十二年)後であるので問題はないが、寛政十一年に村に菜種商売のものがいるとの報告は幕府の法令からいえば違法ということになり問題である。それはともかくとして、菜種は統制のきびしい作物であったから、たとい菜種商売の無株在郷商人が発生したとしても、それが大きく成長する余地は少なかった。そして取引の自由な米・綿を扱う在郷商人において本格的な発展がみられるのである。
 

表75 下佐曽利村農民の農業外余業 (天保13年)