在郷米商人仲間結成の動き

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 綿を扱う在郷商人もさることながら、生産力の高い摂津の農村では、個々の農民が売り出す米も多く、それを買い入れて大阪や在郷町へと売り出す在郷米商人の族生はいちじるしいものがあった。ことに天保期に連年慢性的に飢饉がつづき、七年・八年には大凶作・大飢饉となったため、在方で活発に米・雑穀の仲買活動をおこなっている有力在郷商人のなかに、多数の零細在郷商人をおさえて株仲間を結成しようとする動きまであらわれてくる。
 天保八年七月摂津七郡(武庫・川辺・有馬・豊島・島上・島下・菟原)の五穀仲次人三三人から五穀仲次取締り方が出願された(表76参照)。穀価が高騰すると、五穀取扱い商人のほかの者までがみだりにせり買いをおこない、穀価が下落すれば、彼らはいったん農民から買う契約をしたものでも買い取らぬというようなことをする。このような不取締りがないように在方五穀仲次の者が仲間をつくり互いに申し合わせて取締りをおこなうことを免許されたいと願ったのである。これはいうまでもなく、特定の在郷米穀商人だけに穀物の取扱いを限ろうとするものであった。しかしこの願いは幕府の認めるところとならなかった。
 そこで彼らは、こんどは大阪納屋物(なやもの)雑穀問屋仲間(株仲間)の配下に加わる形で仲間を結成しようとした。ここにさらに八部郡の在郷商人をも加えて、十二月には摂津八郡五穀仲次人の願いとして大阪納屋物雑穀問屋配下加入を求める出願を幕府に対して起こした。
 この在郷米商人の仲間結成の運動は天保九年にはさらに多数の加入希望者を加えて盛り上がりをみせるが、結論的には配下加入、仲間結成の願いは認められるにいたらなかったようである。しかしこの運動にさいして、川辺郡の在郷米商人が運動の中心となっていること、天保八年七月の出願には、蔵人村の重右衛門(重助)と小浜村の米屋蔵吉が加わっており、また十二月の出願には蔵人村重右衛門と安倉村林兵衛・丸橋村綿屋儀左衛門が加わっていることが注目される。とくに蔵人村の重右衛門は十二月の出願には武庫郡惣代となっている。もちろんほかにもその程度の規模の在郷商人はいたであろうが、少なくともここに名をあらわすものたちは市域でも代表的な在郷米商人であったのであろう。
 

表76 天保8年摂津8郡在郷米商人仲間結成出願連名者

郡名村名7月出願者12月出願者
武庫蔵人米屋重右衛門○米屋重右衛門
上ヶ原新田米屋新右衛門
友行干鰯屋五郎兵衛
川辺小浜米屋藤吉
安倉米屋林兵衛
丸橋綿屋儀左衛門
荒牧山内屋要蔵
新田中野米屋藤兵衛
西野綿屋作治郎
昆陽○加茂屋平兵衛○加茂屋平兵衛
○石橋屋吉右衛門石橋屋吉右衛門
津国屋権七
大鹿武田屋梅吉武田屋梅吉
有馬生野○米屋直次郎
五社戎屋利兵衛戎屋利兵衛
道場河原2人2人
豊島南刀根山米屋甚兵衛米屋甚兵衛
麻田○仲屋新兵衛仲屋新兵衛
米屋吉兵衛米屋吉兵衛
干鰯屋五左衛門干鰯屋五左衛門
新免綿屋平九郎綿屋平九郎
米屋要助○米屋要助
島上(村名省略)3村7人1村2人
島下4村4人2村2人
莵原3村3人3村3人
八部1村1人