つぎに近世後期の村のできごととしていくつか山と水にかかわることがらについて述べよう。
昆陽野芝地が享保十五年(一七三〇)に山本村分(丸橋・口谷を含む)と平井村分とに分割されたことについてはすでに述べたが(四六四ページ図19参照)、そのうち平井村分は村からかなり遠いため、平井村はその後この地を開墾することもなく放置した。そのため近在からこの芝地に肥土や芝草を取りにはいり、土地がしだいに荒らされるようになったらしい。それを取り締まるため、平井村は文政初年になってこの芝地の番を久代村の山番人に依頼している。
このような時期に、たまたま文政五年(一八二一)八月隣村の口谷村からこの芝地を永請けしたいと申し出てきた。口谷にとってはこの芝地は地続きで便利なので、年々米一石五斗の宛て米をだすから永宛てにしてもらいたいと願ったものである。平井村はこの申し出を歓迎して、陣屋役人の了承を得て同年十二月口谷との間に上の条件で永請証文を取りかあした。ところがその後領主(忍藩阿部氏)から永宛てすることを許さないと連絡してきた。そのため永宛てのことはいったん実現をみないことになってしまった。
しかしその後まもなく文政六年三月に平井村は忍藩阿部氏の支配から離れて七月には一橋徳川氏領となった。この領主交替を機会に話が再燃している。七年八月平井村は口谷に永宛てしたいと願い出、閏八月一橋徳川氏から許可された。