①長尾山大つら(頬)谷山論 文化六年(一八〇九)長尾山大つら谷の両側の山について山親両切畑村と山子五八ヵ村の間に争論が起きた。大つら谷は鳥脇から北へ切畑に向かって流れる谷川筋である。この川は切畑から東へ折れて猪名川町を経て猪名川に注ぐ。
たまたまその前年文化五年に、幕命によって猪名川上流の山や谷の土砂留を尼崎藩が担当することになった。そこで尼崎藩は六年に猪名川水系の山や谷を見分して土砂留場所を指定して回ったが、このとき大つら谷両側の山の所属が問題になったのである。
両切畑村は、この大つら谷筋には同村字検見ヶ浦の牛飼場五町歩があると主張した。これに対して山子五八ヵ村側は、ここは一帯に山親・山子五八ヵ村総立会の奥山であるとして争論となった。このときには和談がまとまらず、そのままとなったようである。
ところが弘化三年(一八四六)ふたたび争論がもちあがった。中山寺村が取噯人となって翌四年三月和談が成立した。つぎにでてくる一之瀬土橋というのは切畑集落の南東約七〇〇メートルのところにかかっている橋である。和談の内容はつぎのとおりであった。
1 一之瀬土橋より上流、谷の西側(左岸)七丁半ほどの間(箱ヶ谷限り)は山の尾根まで両切畑村の持林とする。また東側(右岸)橋より五〇間ほど(大原谷限る)は両切畑村の持林とする。
2 1に指定した地域より上流、榎峠(鳥脇集落の東南約二キロメートル)までの地は、鳥ヶ脇新田がもっている内林を除いて、すべて山親・山子五八ヵ村の総立会山と定める、というものであった。
②長谷・広根村境争論 長谷村芝辻新田から銀山村へ越える長坂峠の東に広根村の長坂谷用水溜池がある。その東方の字ふじが丸山をめぐって安政五年(一八五八)に長谷村と広根村の間に村境争論が起きた。上阿古谷村庄屋が取噯に入ったが、領境ははっきりしないまま決まらず、結局この年の四月から七万日の間は、論所は取暖人が預かることで双方納得した。七万日とはずいぶん長い話である。
和談の内容は、字ふじが丸山は従来から双方立会の草刈り場であるので、今後とも両村が自由に入って草を刈ってよいわけであるが、小さい山でもあり、かつ長谷村には草刈り場が少ないので、山の口明け日から夏至(げし)まで一五日間は両村で刈ることにする。そのあとは長谷村一村だけで刈り取ってよい、というものであった。領境の決定はたなあげにして、山の利用についてのみ和談がなされたわけである。