最明寺川争論(二)

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 前に述べたとおり市域において用水争論らしい争論がみられるのは最明寺川くらいのものである。この最明寺川については、さきに享和二年(一八〇二)に山本四ヵ村と寺畑・栄根両村の間に争論がもちあがったことについて述べた(四八五ページ参照)が、このときにかぎらず、この川筋の争論はつねに最明寺川から流れでる土砂の堆積のために中川・茂川の排水が困難になることから起きた。
 文政五年(一八二二)山本・丸橋・口谷三ヵ村が寺畑・栄根村を相手取ってふたたび訴訟を起こした。平井村は相手二ヵ村と同領(忍藩阿部氏領)であるため訴訟の表面にでていないが、事実上は山本四ヵ村の訴訟であった。相手両村がわがままに最明寺川にいくすじも横堰(石段堰)をつくったために川水の流下がさまたげられ、五月の増水のとき口谷字中島の地が一面に水につかってしまった。そればかりか山本と寺畑の村境付近で最明寺川の水があふれ、山本村々入組の田地を荒地にしてしまった。このように述べて横堰の取払いを訴えたのである。
 

写真224 最明寺の滝『摂津名所図会』


 
 結局同年十一月和談が成立し、つぎのとおり取り交わされた。①寺畑・栄根村立会の分量木がうわっているところから北二八間二尺三寸のところに新たに分量木を伏せる。この新分量木は南の古い分量木より三寸高とする。②下の段堰は底の胴木から上の胴木までの高さを一尺七寸とする。③上の段堰は高さは四尺三寸とする。④上の石段堰の五八間半上手に従来からあった蛇籠(じゃかご)や古杭木は取り払う。⑤この五八間半の範囲の川幅は従来どおり五間とする。⑥その地点からさらに上手は諸木をきり払い水行にさしつかえないように川さらえをする。⑦口谷村字中島の悪水抜き溝は幅六尺とし、溝さらえは自由におこなってよい。⑧享和二年の取りきめ同様、寺畑村領に属するところも一五〇間の間は口谷村が自由に川さらえしてよい。山本と寺畑の村境から五一間は水があふれないように南堤を北堤と同じ高さにする。⑨以上の個所の諸普請は寸法に相違のないよう双方が立ち会って点検する。