最明寺川争論(三)

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 以上のように和談が成立したが、その後文政八年に争論が再発している。この年の四月ごろから大雨が降りつづき最明寺川に土砂がたまったため、中川の排水ができなくなった。そこで寺畑・栄根村は最明寺川の土砂揚げをしたが、同時に中川との合流点に土砂がたまらないように、最明寺川に新たに横堰をつくった。山本四ヵ村がそれをみとがめて訴訟を起こしたのである。
 このときは十二月に和談が成立した。和談の取替証文は文政五年のそれを再確認し、さらに新しい条項を取りきめている。今新しく加わった点をあげるとつぎのとおりである。①上の段堰の最上部は北の分量木から六尺四寸八分高とする。②上の段堰から三五間上手に新たに長さ五間の胴木を一本入れる。そのうえに割石を一列並べる。段堰の最上部よりこの割石の最上部までの高さは二尺五寸とする。③今後はこれ以上横堰はつくらない。もしこれに違反した場合は山本村々で取り払っても申し分はない。
 要するに最明寺川の水論は、寺畑・栄根両村が設ける横堰をめぐって山本四ヵ村と寺畑・栄根村の双方が排水を調整し、共存をはかろうとする努力であったといえよう。