直領の貢租徴収の形態はほぼ享保期(一七一六~三五)に定着した。すなわち一七世紀のなかごろ制度として固まった三分一銀納・十分一大豆銀納制、ついで延宝期(一六七三~八〇)に制度化した山手米・小物成の徴収、享保期にはじまった六尺給米・御伝馬宿入用(米)・御蔵前入用(銀)・口米・口銀の徴収、以上のような諸種の形態があらわれた。そして享保以降はこれらを網羅して、絞れるだけ絞る形で収取されるようになったのである。
しかもこの場合とくに石代銀納値段が問題であった。農民が米を売って得る銀額よりも上回る額で銀納が要求されたからである。銀納値段の基準となった三分一銀納値段がそもそも時価を上回るものであったが、六尺給米・御伝馬入用・山手米・小物成の銀納値段はこの三分一銀納値段と同額、口米の銀納値段はそれよりさらに五匁高の額で定着し、近世中・後期を通じてこの形で直領の収取がつづくのである。
このような直領の徴租方式は直領の村だけでなく大阪城代領などでも用いられ、近世後期には一橋徳川氏領でも準用された。市域の北部はほとんど直領であったし、南部には直領の徴租方式を用いた忍藩阿部氏の所領が多く、またそれを引きついで文政以降は一橋徳川氏領が多かったから、市域のほとんどの村において上記の直領の徴租方式がとられたのである。