ところでとくに問題になるのは一橋徳川氏領であった。同領では銀納形態を本則とする十分一大豆銀納・三分一銀納の部分(四分方)だけならともかく、本来米納すべき六分方の部分まで代銀納を命じられた。しかもこの米納部分を銀納する銀納値段すなわち本途石代値段が天保六年(一八三五)以降は三分一銀納値段よりもさらに高く定められているのである。
市域に一橋徳川氏領ができた文政六年(一八二三)以後天保五年までは、この本途石代値段は年によって村によって違いはあるが、三分一銀納値段より一匁五分安とか二匁安、二匁八分安というふうに、いずれにせよ三分一銀納値段より安い石代値段で代銀納されてきた。それが天保六年からは逆に一匁高となっているのである。一橋徳川氏領安場村の文政十二年と天保六年の徴租の状況ならびに銀納値段を表77にしめした。この表によって天保六年に石代値段がはねあがり収奪が強化されたことを知りえよう。
さらに平井村の記録では天保四年八月の項に「一橋御役所御領知村々新大見トシテ田畑共見分被成少々宛御年貢まし」とある。安場村についてみても、不作の年にもかかわらず本途は前年までの二八石一斗七升二合からこの年二八石八斗七升六合に増加しており、免の引上げによっても増徴がはかられたことが知られるが、そのうえに本途石代値段の引上げがなされたのであるから、一橋徳川氏領では徴租の問題が幕末期に大きな問題となった。
村々は幕末期まで毎年のように本途石代値段を三分一銀納値段にまで下げるよう嘆願する。しかし一橋徳川氏は頑(がん)としてこれを聞き入れず、幕末に至るまで三分一銀納値段より一匁増しで徴収しつづけた。