天災もまた人災

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 大塩平八郎は例の摂河泉播村々にあてた檄文において、四海の困窮は過重な御用金の賦課や年貢諸役のはげしい徴収に起因していると断言し、またうちつづく天災・飢饉は天の戒めであるのに為政者はそれに気づいていないと憤っている。天保の慢性的飢饉がつづくなかで、一橋徳川氏領において収奪の強化がはかられたことは、まさに大塩のいう天の戒めに気づかぬものであり、天災もまた人災にほかならないことをしめすようなものであった。
 事実、収奪のきびしさから、幕末期には一橋徳川氏領村々をはじめ一般的に、あまりめだたないが意外にきびしい慢性的な凶作・飢饉・困窮がつづいている。市域に残る史料は不思議に五年おきの凶作を伝えている。
 弘化二年(一八四五)長い日照りのあとに風雨がつづき、米谷村では綿のできがわるく刎綿(はねわた)が多くなった。上綿の分でも値段が安く、年貢銀の上納に困っている旨が報告されている。
 嘉永三年(一八五〇)にはたびたび大風が吹き、稲作・綿作とも収穫が皆無同然となった。このため年を越したころには飢人もでる有様となった。下佐曽利村の記録には、近年凶作がうちつづいて農民一同極度に困窮し別して嘉永三年には凶作であると伝え、米価は格別に高値になったのに農民が売る農産物はことのほか下落していることがしるされている。現に凶作のために、嘉永四年三月には一橋領西組の安場村以下六ヵ村・三二〇九人の農民のうち実に三七%にあたる一一八七人が飢人となってしまった。村別にしめすと、安場村は二八一人中七六人が飢人、小浜村は八〇〇人中三一九人、安倉村は五五九人中二三八人、中山寺村は二五三人中一〇二人、山本村は五八二人中二四三人、丸橋・口谷は四六七人中一二四人、平井村は二六七人中八五人が飢人というありさまであった。
 安政二年(一八五五)は土用前から日照りがつづき大旱魃となった。このため米谷村では木綿(きわた)が枝葉とも枯れちぢんで、七月十四日の大風雨で吹き倒されいっこうに実が吹きださず「大難作」となっている。
 万延元年(一八六〇)には五月に稲を植えてから雨が降りつづき苗が立枯れした。七月中も大雨つづきで、早稲(わせ)も晩稲(おくて)も実入りが少なく、上田でも八、九斗、下田ではようやく六、七斗の作がらであり、綿作も平均二〇斤、大豆は平均一斗という「古来稀成大違作」となっている。一方、肥料は高騰しじゅうぶんに買いかねるし、肥料代の支払いも大きく滞った。