このような大凶作のため米価は高騰し、一橋徳川氏領村々の三分一銀納値段・本途石代値段もこの年ついに二〇〇匁に達し、文政六年(一八二三)に一橋徳川氏領となって以来いまだ例のない高額となった。そこで摂津の一橋徳川氏領五二ヵ村のうち定免制がしかれている三七ヵ村では、窮状を訴え、年貢銀(皆銀納であった)の四割方の延納許可を願いでている。安場・小浜・中山寺・平井村もこの嘆願に参加したが、結局翌年(文久元年)五月二十日までの延納が認められた。
しかしこの延納分も日限までに完納できる見込みがたたず、三月十三日に年貢銀が調達できないことを嘆願し、延納の締切り日が近づいた五月十七日には、麦・菜種の収穫に期待していたのに肥料代にも足りない状態であることを訴え、延納銀の貸下げ、無利息二〇ヵ年賦返済にしてもらいたいと願っている。
慶応元年(一八六五)も凶作となった。一橋徳川氏領村々では、定免制の年季内ではあるが破免・検見に願いたい旨嘆願している。そして翌二年、平井村では、米価が高騰しているため村方が難渋しているとして一橋徳川氏に対して御手当米の下付を願っている。一橋徳川氏は村保管の囲米のなかから借用することを認め、三ヵ年賦返納の条件で難渋人三八人に一七石三斗二升三合の米を貸し与えている。一人一斗五升から八斗までが貸与された。
このように幕末期には凶作がうちつづいた。それはもちろん天災の面もあるが、幕末期に凶作の年が多くなり、村方小前百姓の困窮がひどくなったのには、日ごろの収奪のきびしさ、それによる階層分化の進行が大いにひびいているといえる。