もっとも幕末期については農民の困窮化をのみ強調することはあたらない。むしろ窮乏がすすむにつれて農民は封建的収奪に対して、いよいよ激しく抵抗するようになった点に注目すべきであろう。幕末期には摂津の直領や一橋徳川氏領で執拗(しつよう)に石代値段の引下げを求める動きがつづき、またつぎにみるように国訴が再度高揚して、民衆の反封建闘争はいよいよ高まりをしめすのである。
さきの文政の国訴の高揚と、その勝利を契機とする在郷商人の発展によって、株仲間の独占性がもつ矛盾はいよいよ明らかとなり、幕府はついに天保十二年(一八四一)株仲間を解散するにいたった。ところがその後一〇年にして嘉永四年(一八五一)に株仲間は再興された。そして幕府が同七年六月につぎのような法令をだすにいたったため、ふたたび国訴の高揚がみられることとなる。国訴の契機となった七年の法令というのは、株仲間以外のものが在々へ人を派遣して綿の買入れ、直船積などをしてはいけない。綿を取り扱うにはたとい他の商売を兼ねているものでも綿屋仲間(株仲間)に加入しなければならない、というものであった。
この命令に対してはただちに閏七月川辺・豊島郡六一ヵ村(はじめ三七ヵ村)が反対のための結集をみせた。その集会でまとまったことはつぎの三項を訴願しようということであった。①文政六年の国訴が聞き届けられせっかく作綿の売りさばきが自由になったのに、このたび綿屋株が再興され株仲間に加入したものにしか売れなくなった。このため綿の売りさばきが手狭となり難渋している。②肥料も近年格別高値となって農民一同難渋している。③作菜種の売りさばきも手狭になって一同難渋している、という三点である。
平井村以下市域村々六ヵ村(一橋徳川氏領西組)も参加したこの六一ヵ村の村々の集会でまとまった以上の三項は、結局訴願するまでにいたらなかったようである。そして第一項、綿売買が手狭となったことに関しては、この年の摂津・河内村々の国訴に参加することによって訴願をはたす。つぎに肥料の高騰や菜種の売買手狭に関することは、当面さしせまった問題でないとして訴願するにいたらず留保されたが、うち菜種に関しては、翌安政二年六月一〇八六ヵ村の国訴に参加することによって訴願をはたしている。こうして六一ヵ村の集会に参加した平井村以下市域の六ヵ村は引きつづき右のふたつの国訴にも参加していったわけである。