ふたつの国訴のうち、まず嘉永七年の摂・河村々がおこなった綿の国訴では、綿屋仲間以外のものが直買・直船積を許されなくなったため、売り先が手狭となって村々が難渋している。どうか文政期の仰せ渡し(五六七ページ参照)のとおり売買の自由を認められたいと訴えた。
これに対して幕府は八月、綿屋仲間が設定されても、文政期の仰せ渡しの趣意を何らそこなうものではない。細工綿だけは株仲間にはいったものに取り扱わせるが、実綿・繰綿については農民は遠近他国の綿商人に自由に直売・直船積してよいと申し渡した。ここに村々は綿売買の自由を達成したので訴願を願い下げ、ことが落着した。
その翌年にだされた摂・河一〇八六ヵ村の菜種の国訴では、村々は絞り油屋が談合して菜種の値段を油相場の四分の一と定め、それ以上に買い取ろうとしないこと、また油・油粕が高値となっていることにふれ、菜種・油・油粕の正常な手広売買がおこなわれるよう訴えている。再興後の株仲間は、株数の制限はないので独占性は希薄であるが、それにしても株仲間にはいっていないものには菜種が売れなかったから、程度の差はあれ種物売買の自由が狭められたことは確かである。幕府はこの訴願を受理し、摂・河在々の絞り油屋を呼びだし売買手狭にしないよう申し渡した。絞り油屋がこれを請け、正しい売買をおこなうことを誓約したため、村々は訴願を取り下げた。
嘉永・安政の国訴によって、かつて文政に獲得した国訴の成果は株仲間再興後も変わりないことが確認された。こうして幕末期には、幕府は農民の大規模な訴願に押され、もはや往年の統制力を失ったことを知ることができる。