さて、北方で、すでにロシアの南下がみられた天保期(一八三〇~四三)、南からは阿片戦争(天保十一年)の経過が摂津の村々にも伝わり、外艦渡来の風聞が高まっていた。そのような情勢となって天保十三年幕府は大名所持の武器、とりわけ大砲の員数を調査し修理をおこたらないよう命じる。尼崎藩のごときは、当時百目玉大筒一挺しかもっていない状態で、海辺に所領をもつ大名としてまことに貧弱であった。そこで同藩ではにわかに大筒以下の鋳造計画を立てて対面をつくろおうとし、この鋳造のために藩領村々に献金を要請している。
同藩領であった市域の村々も献金した。伊孑志村は一四九匁九分六厘、小林村は五二五匁二分六厘、蔵人村は三四五匁七分二厘、鹿塩村は一六六匁九分一厘を上納している。このような村々の献金によって翌天保十四年には六貫目玉筒・一貫目玉筒・五百目玉筒各一挺と百目玉筒三挺、計六挺が鋳上がり、七月十六日に武庫川原で試射をおこなった。
弘化(一八四四~四七)にはいるとわが国の周辺に異国船がしきりに来航し、海辺防備の重要性が高まった。幕府は嘉永三年(一八五〇)諸藩に海岸防備を厳にするよう命じた。同六年六月にはペリーの浦賀来航があり、翌年には再度渡来するとの報もうけていた。こうしたなかで嘉永七年七月高槻藩預かりの直領(五五八ページ表73参照)は、「海岸御備筋之内へ上納金」を納めるよう求められた。下佐曽利村では卯兵衛が一二両を献じたのをはじめ六人が計二七両二分を上納した。これはつぎに述べる摂海(大阪湾)防備のためではなく、まだおそらく江戸湾防備のための献金であったと考えられる。
その後まもなく九月十八日ロシア使節・極東司令官プチャーチンのひきいる口シア軍艦がついに摂海にはいり、御影村(神戸市)・打出村(芦屋市)・鳴尾村(西宮市)沖合を回航して天保山沖に停泊する事態となった。このときはロシアの軍艦は十月三日まで湾内に停泊し、同日下田に向かって去るが、摂海防備の必要はいよいよ痛感された。幕府はここに江戸湾に加えて摂海沿岸を重要な防備地区と定め、ロ艦来航の直後には勘定奉行石河政平らに大阪近海の海岸を巡見させ、沿海諸藩には砲台をきずかせた。さらに翌安政二年十月には摂海防備の方策を検討するため海防掛・勘定奉行川路聖謨(としあきら)に摂・泉海岸の巡視を命じている。