このような摂海の模様は市域村々にもいずれ伝わったであろう。そして村々にもこの事態に対する動きがみられるようになる。安政二年(一八五五)五月と十一月市域北部の高槻藩預かり直領村々に触書がだされた。寺にある梵鐘(ぼんしょう)を取り調べ、早々に大阪町奉行所に届けるようにというものであった。寺にある鐘のうち本寺の鐘は除き末寺の鐘を供出させること、ただし古来の名鐘および当時刻(とき)の鐘として使われている鐘は供出から除外するという基準がしめされた。
この触書にもとづいて村々から報告がだされたが、報告した月日は地域によってかなりへだたりがあるようである。多田院(川西市)の所領については安政三年二月報告が提出されており、長谷村普光寺の場合は同年六月に提出されている。この普光寺の報告には同寺の梵鐘の大きさは、長さ三尺四寸・口の広さ二尺五寸・厚さ二寸二分・龍頭(りゅうず)七寸五分・目方一二五貫であること、承応二年(一六五三)八月俊海法印のとき津吉(次郎兵衛・惣兵衛)を本願人として鋳造されたことがしるされていた。
報告の結果、高槻藩預かりの直領村々については、つぎの寺々に対して十一月上阿古谷(猪名川町)庄屋から回状がまわり、異国船防備のため鐘を供出すべき命令が伝えられている。そしてその趣意に伏して、いつでも命令がありしだい梵鐘を供出する旨を誓約した請書を、十一月二十四日までに提出するよう連絡をうけたのである。
上佐曽利村万正寺
下佐曽利村観音堂
長谷村普光寺
大原野村阿弥陀寺
同村氏神境内
同村宝山寺
境野村普門寺(以上宝塚市)
清水村成仏寺
笹尾村安楽寺
柏原村永泰寺
北田原村東光寺
銀山町大恵寺(以上猪名川)
黒川村徳林寺
山原村常福寺
東畦野村瑞岩寺
平野村岡本寺
西多田村浄
徳寺(以上川西市)
新田中野村常休寺(伊丹市)
これらの鐘は「御下知しだい差し上げ奉るべく候」という請書の文面であったが、結論をいえば、供出すべき鐘が指定されたにとどまり、じっさいには供出されずに終わったもののようである。安永二年(一七七四)銘の上佐曽利村万正寺の鐘、承応二年(一六五三)銘の長谷村普光寺の鐘、それから元文三年(一七三八)に建立の鐘楼につるされた新鋳の鐘というから、おそらく元文三年新鋳と思われる大原野村阿弥陀寺の鐘、以上の三つの鐘はともに第二次世界大戦時の昭和十八年に供出されたことがわかっている。したがっていずれも安政年間に供出されたとは考えられない。
そのほか山原・西多田の鐘は昭和十七年に、柏原の鐘は昭和十八年に供出され、笹尾・北田原・清水・黒川・新田中野の鐘も第二次世界大戦中に供出されたということである。これらの事実からも安政には供出されなかったものとみられるのである。