一橋徳川氏領における一般的な貢租の徴収については本節のはじめに述べたが、幕末期にはもうひとつ一橋慶喜の在京に伴う夫人足(ぶにんそく)・歩兵の徴発が負担として加わっている。
一橋慶喜は文久二年(一八六二)七月将軍後見職に任じられていたが、将軍家茂(いえもち)の上京(翌三年三月四日)に備えて、慶喜は十二月十五日江戸をたち、翌三年正月五日京都に到着した。このときは四月二十二日まで京都に滞在し、その日京を発して五月八日江戸に帰着している。
この上京にさいして文久二年十二月はじめて御用夫人足の徴発がおこなわれた。摂津・和泉にある所領から高役で人足の差出を命じたのである。市域の所領は安場・小浜・安倉・中山寺・山本・丸橋・口谷・平井で、大野新田(伊丹市)とともに西組を構成していたが、この組には小浜・安場のように村高が少なく、それに比して人口が多い村があるので、組の内部では高割一本ではなく高・家数両方を考慮する方法で人足の割付けがなされた。以後も同様である。
慶喜は将軍の再上洛にさきだち文久三年十月二十六日ふたたび江戸を発して、十一月二十六日京都に到着した。このときは、慶喜は将軍の帰府後も京都に滞在し、動揺しはじめた幕権の擁護につとめた。そして元治元年(一八六四)将軍後見職を解かれたのちも「禁裏御守衛総督摂海防御御役」をつとめ、あるいは長州征伐に参画するなど「国政補翼」にしたがった。