表78 一橋徳川氏の人足・歩兵の徴発
年月 | 徴発 | 人足 | 摂津 | 和泉 | 播磨 | 計 | |||||
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歩兵 | 西組 | 川辺組 | 中組 | 萱野組 | 島下組 | ||||||
人 | 人 | 人 | 人 | 人 | |||||||
文久2・12 | 御上京御用人足 | 24 | 180 | 220 | 400 | ||||||
3・9 | 駈付人足 | 52 | 60 | 52 | 50 | 76 | 290 | ||||
・11 | 京御用夫人足 | 10 | 10 | 10 | 11 | 10 | 51 | ||||
追夫人足 | 6 | 4 | 3 | 4 | 5 | 22 | |||||
元治1 | 歩兵人夫 | 26 | 30 | 25 | 25 | 38 | 144 | ||||
・8 | 砲術方 | 1 | 2 | 3 | 12 | 16 | |||||
・10 | 追歩兵人足 | 1 | 1 | 1 | 3 | 3 | 4 | 10 | |||
・5 | 小姓人夫 | 2 | 1 | 1 | 1 | 2 | 7 | 8 | 0 | 15 | |
・6 | 御用夫人足 | 10 | 10 | 10 | 11 | 10 | 51 | 64 | 75 | 190 | |
・8 | 〃 | 14 | 17 | 14 | 13 | 19 | *81 | 101 | 118 | 300 | |
〃 | 40 | 150 | |||||||||
・12 | 追夫人足 | 6 | 4 | 3 | 4 | 5 | *25 | 37 | 58 | 120 | |
〃 | 5 | 6 | 5 | 4 | 7 | 27 | |||||
慶応1・4 | 歩兵 | 13 | 14 | 12 | 13 | 18 | 70 | 90 | 103 | **450 | |
・9 | 再歩兵 | 14 | 15 | 13 | 14 | 19 | 75 | 90 | 87 | 252 | |
〃 | 砲術方 | 3 | |||||||||
・6 | 夫人足 | 10 | 11 | 11 | 12 | 9 | 53 | ||||
・6 | 御配膳方 | 7 | 8 | 0 | 15 | ||||||
・7 | 京地残夫人足 | 2 | 6 | 2 | 3 | 2 | 15 | 11 | 17 | 33 | |
・11 | 追夫人足 | 3 | 3 | 4 | 10 | ||||||
・12 | 〃 | 6 | 5 | 5 | 4 | 7 | 27 | ||||
2・1 | 京地残夫人足 | 2 | 5 | 1 | 3 | 1 | 12 | 9 | 7 | 28 | |
・4 | 〃 | 25 | 25 | 20 | 18 | 16 | *107 | 300 | |||
・5 | 〃 | 24 | 22 | 19 | 21 | 33 | 119 | ||||
・11 | 鉄砲組 | 3 | 2 | 2 | 7 |
〔注〕*印の数字は5組の計と合わないが,それは京都で直接奉公を申し出たものなど若干名が加わっているためである
**印の数字には備中徴発のものも含む
これら人足の給銀や支度料その他の諸費用はごく一部が一橋徳川役所から支給され、多くの部分は高掛り・棟割で領村に割りつけられたので、村々は人足の徴発に加えて割賦銀の負担も負わなければならなかったわけである。そのうえ文久三年十月には摂津五郡から三一万五〇〇〇両の御用金も課せられている。市域村々でいうと、安場六三〇両・小浜四九二両・安倉六三八両・中山寺五五両・山本二一六両・丸橋一〇九両・口谷六四両・平井二八六両と、巨額である。しかもその半ばは永上納金で、普通の御用金のように返済をうけるあてのないものであった。
なお夫人足や歩兵人夫とは別に、元治二年(慶応元年・一八六五)四月に歩兵隊四五〇人の編成がおこなわれている。いわゆる農兵の組立てである。十月には再歩兵(新歩兵)二五二人が、慶応二年四月には三〇〇人が徴集された。歩兵には壮健なものが選ばれたが、訓練のきびしさと農業を離れて服務するところから忌避されがちで、帰農を願いでるもの・脱走するもの・病気になるもの・身持ちがよくないもの・休暇を願いでるものが相次いだ。そのため欠けることが多く、たえず代人で補わなければならない状態であったようである。
一橋慶喜は慶応二年八月将軍家茂のあとをうけて徳川宗家を継ぎ、十二月には将軍宣下(せんげ)をうけた。これで本来なら一橋徳川氏領村々と慶喜との関係は消滅するわけであるが、同家領からの歩兵の徴集は慶喜が将軍となってからもつづけられた。その場合は幕府陸軍所の管下にはいり勧農金(勧農方御手当金)が支給された。摂津・和泉・播磨の一橋徳川氏領からでた歩兵は慶応二年十二月には河原町二番隊に四八人が属して勤務した。同三年五月には将軍慶喜の居所二条城追手前の警護に第五連隊第二大隊として服務した。