京地御用人足・歩兵の徴発

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 その間慶喜は長期にわたって在京した。そのため摂津・和泉・播磨・備中の所領村々に対しては、たびたび御用夫人足や歩兵人夫、さらにはその徴収にともなう諸費用の賦課が加えられる。いま文久二年以後の御用夫人足ならびに歩兵の徴発を表示すれば表78のとおりである。小姓人夫あるいは御配膳方とあるのは、慶喜の御旅館所の御賄所に属し御座所まわりの召使をつとめる給仕方人足のことである。御用夫人足は一ヵ年の契約で雑務に服するもの、追夫人足は随時短期間だけ徴発されたものである。
 

表78 一橋徳川氏の人足・歩兵の徴発

年月徴発人足摂津和泉播磨
歩兵西組川辺組中組萱野組島下組
文久2・12御上京御用人足24180220400
  3・9駈付人足5260525076290
  ・11京御用夫人足101010111051
追夫人足6434522
元治1歩兵人夫2630252538144
  ・8砲術方1231216
  ・10追歩兵人足11133410
  ・5小姓人夫2111278015
  ・6御用夫人足1010101110516475190
  ・8141714131981101118300
40150
  ・12追夫人足64345253758120
5654727
慶応1・4歩兵13141213187090103**450
  ・9再歩兵1415131419759087252
  〃砲術方3
  ・6夫人足10111112953
  ・6御配膳方78015
  ・7京地残夫人足2623215111733
  ・11追夫人足33410
  ・126554727
  2・1京地残夫人足25131129728
  ・42525201816107300
  ・52422192133119
  ・11鉄砲組3227

〔注〕*印の数字は5組の計と合わないが,それは京都で直接奉公を申し出たものなど若干名が加わっているためである
   **印の数字には備中徴発のものも含む


 
 これら人足の給銀や支度料その他の諸費用はごく一部が一橋徳川役所から支給され、多くの部分は高掛り・棟割で領村に割りつけられたので、村々は人足の徴発に加えて割賦銀の負担も負わなければならなかったわけである。そのうえ文久三年十月には摂津五郡から三一万五〇〇〇両の御用金も課せられている。市域村々でいうと、安場六三〇両・小浜四九二両・安倉六三八両・中山寺五五両・山本二一六両・丸橋一〇九両・口谷六四両・平井二八六両と、巨額である。しかもその半ばは永上納金で、普通の御用金のように返済をうけるあてのないものであった。
 なお夫人足や歩兵人夫とは別に、元治二年(慶応元年・一八六五)四月に歩兵隊四五〇人の編成がおこなわれている。いわゆる農兵の組立てである。十月には再歩兵(新歩兵)二五二人が、慶応二年四月には三〇〇人が徴集された。歩兵には壮健なものが選ばれたが、訓練のきびしさと農業を離れて服務するところから忌避されがちで、帰農を願いでるもの・脱走するもの・病気になるもの・身持ちがよくないもの・休暇を願いでるものが相次いだ。そのため欠けることが多く、たえず代人で補わなければならない状態であったようである。
 一橋慶喜は慶応二年八月将軍家茂のあとをうけて徳川宗家を継ぎ、十二月には将軍宣下(せんげ)をうけた。これで本来なら一橋徳川氏領村々と慶喜との関係は消滅するわけであるが、同家領からの歩兵の徴集は慶喜が将軍となってからもつづけられた。その場合は幕府陸軍所の管下にはいり勧農金(勧農方御手当金)が支給された。摂津・和泉・播磨の一橋徳川氏領からでた歩兵は慶応二年十二月には河原町二番隊に四八人が属して勤務した。同三年五月には将軍慶喜の居所二条城追手前の警護に第五連隊第二大隊として服務した。