ええじゃないかの乱舞

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 慶応元年(一八六五)幕府は、攘夷討幕をめざす長州藩の再征を令したが、この第二次長州征伐の強行は無謀であった。諸藩はもはや容易に幕命に従わず、幕府みずからも極度の財政窮乏におちいっていた。それを押しての再征はみずから衰亡倒壊の墓穴を掘るようなものであった。たまたま慶応二年七月将軍家茂が大阪城で死んだ。それを機に、あとを継いだ慶喜は征長の兵をとどめた。そして倒幕の運動をそらすためと、公武合体・公議政体によって幕府の延命存続をはかるために、慶応三年十月十四日には大政奉還を願いでる。しかしそれをめぐって政局はさらに混迷し、倒幕をはかる薩長の大軍はようやく上方に集結しはじめる。そしてまもなく十二月九日世情混乱のなかに王政復古の大号令が発せられ、幕府の廃止、維新政府の発足をみることとなっている。
 かような激動の慶応三年後期の段階に、政局の中心上方で「ええじゃないか」の大衆的狂乱が突如としてわき起こっている。「ええじゃないか」は八月末名古屋地方に起こり、東海道一帯から横浜・江戸に及び、また美濃・飛驒・信濃・甲斐、さらに伊勢から畿内一帯に波及し、淡路・阿波にも及ぶ。そしてこの全国的規模の大衆的狂乱は十一月畿内において最高潮に達する。十一月二十九日兵庫から西宮に来て泊った幕臣福地源一郎は『懐往事談』につぎのように西宮の模様を伝えている。
 
  此踊は其頃諸神の御札が空より降ること所々に流行し、京都大阪より西の宮は頃日頻(けいじつしきり)に降る最中ゆえ市民は是を豊年の吉瑞(きちずい)とし「善(え)じゃ無いか/\/\」と云ふ句に野卑猥褻(わいせつ)する鄙詞(ひし)を挿(さしはさ)みて可笑(おか)しき調子にて唄(うた)ひ、大鼓・小鼓・笛・三味線等の鳴物を加へ、老若男女の差別なく花やかなる衣服を着て市中を踊り廻りて騒き歩行けるなり。現に我等が大阪に着したる時も此御札降りヱジャナイカ踊の大流行の最中にてありき
 
十一月二十九日といえば、長州藩兵が上方をめざしてきて、西宮沖に到着した日にあたる。倒幕の動きをかくす煙幕のように大衆の狂乱が西宮地方にも広がっていたのである。