幕府直領の没収

597 ~ 600 / 602ページ
 慶応三年(一八六七)十二月ええじゃないかの乱舞のさなかに起きた王政復古のクーデターから明治四年(一八七一)七月十四日の廃藩置県までの四年間に、新政府のもとで江戸時代以来の支配関係はあわただしく解体されていく。第二巻の最後に、その解体のあとをたどっておこう。
 市域の幕末における支配関係をみると、北部の西谷地区は麻田藩の波豆村一村を除いて一帯に直領であった。一方南部には、直領が一村(見佐村)と一橋徳川氏領・尼崎藩領が数ヵ村ずつ、ほかに一村(ないし一村の一部)ずつの支配であるが、田安徳川氏・篠山藩・小泉藩・飯野藩の所領と旗本渡辺氏の知行所があった(五五三ページ表72参照)。
 これらの支配関係に加えられた最初の変更は、慶応四年(明治元年)正月十日の直領没収に伴う変更である。摂津の直領は、一部に高槻藩の預かり地となっているところ(川辺・能勢・島上・島下郡のうち一二八ヵ村)、伊予大洲(おおず)藩の預かり地となっているところ(川辺・武庫郡各一村)があったが、これを除けば、他は幕府代官によって分割支配されていた。新政府は正月十日この代官支配地と一橋徳川氏領・田安徳川氏領および京都所司代・大阪城代の所領ならびに「賊徒(徳川方)随従」の旗本の知行所を没収した。そして正月十八日正式に明治新政府の管理下の土地とした後、二月五日これを尼崎藩と三田藩に託して当分の間取り締まらせることにしている。この方針にもとづき市域の直領のうち代官支配地であった見佐村は尼崎・三田両藩の管轄下にはいった。
 

表80 宝塚市域村々の明治初年における所轄の変遷


 
 一方市域北部の高槻藩預かりの直領村々も、もちろん代官支配地と同時に新政府によって没収された。しかし旧代官支配地をもよりの尼崎・三田両藩に預けたと同様な意味で、新政府はこれをそのまま高槻藩に預かり支配させることにしている。したがって事実上は、市域北部の村々は幕府直領時代と同じ高槻藩によって引きつづき預かり支配されることとなったわけである。
 この高槻・尼崎・三田藩の取締まりははじめから当分の経過措置として命じられたものであった。したがっていったん藩の取締まり下におかれたものの、まもなく順次兵庫裁判所あるいは大阪裁判所に移管されていく。見佐村は二月十九日兵庫裁判所に移管された。兵庫裁判所は五月二十三日兵庫県と改称されたので、見佐村はここに兵庫県の管轄下に移行した。