一橋・田安両徳川氏領の消滅

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 つぎに一橋・田安両徳川氏領は新政府に没収された後、二月五日尼崎藩と三田藩の取締まり下におかれた。しかしはじめ尼崎藩と三田藩の管轄区分が明確でなかったので、やがて太政官の指導で両藩の話合いがおこなわれ、三月十二日島下・西成・川辺三郡の旧一橋・田安両徳川氏領は尼崎藩が管轄し、豊島・有馬両郡にある両徳川氏領は三田藩が管轄することに決まった。こうして市域の両徳川氏領は尼崎藩の管轄下におかれることとなった。
 しかし七月二十五日になって両徳川氏は「藩屏(はんぺい)之列ニ被為召加(めしくわえさせられ)」、旧領は両家の手にもどされた。その後一橋徳川氏領は年余を経て明治三年正月十日、一橋茂栄が北海道十勝国広尾・当縁(とうべり)・河西三郡のうちにおいて開拓の命をうけたとき、同日付でもって兵庫県の管轄下にはいった。兵庫県への実質的な編入事務がおこなわれたのは三月十二日であった。
 一方田安徳川氏領も一橋徳川氏より数日遅れ、明治三年正月十三日兵庫県の管轄下にはいった。実質的な編入事務は四月十三日におこなわれ、こうして一橋・田安徳川氏領は消滅するに至った。