つぎに旗本渡辺氏の場合についてみよう。同氏は「賊徒随従」の旗本が知行所を没収された慶応四年正月十目以後も新政府のもとで旗本として知行所をもちつづけた。しかし五月二十四日新政府は旗本の知行所を没収し、それをもよりの府県の管理下に移す旨を達した。ただしこの達しをだした四日後にあらためて達しがだされ、朝廷に帰順した旗本については、特別のはからいをもって旧知行所をひきつづいて領有することを認める旨を達した。このふたつの達しによって、朝廷に帰順しなかった旗本は整理され、帰順したものは新政府のもとで中下太夫として地位を保証されることとなる。渡辺氏はその後者に属して生き残った。
しかしその後、戊辰戦争後の事態がようやくおさまったところで、政府は明治二年十二月十四日全国的に中下太夫の制を廃し、その「知所」を否定するにいたった。ここに渡辺氏の知所も公収され、兵庫県に編入されて消滅した。
その後前述のように、明治三年正月には両徳川氏領が兵庫県の管轄下にはいったが、新政府のもとで引きつづいて旧幕府直領を管轄してきた高槻藩も、同年十一月十四日(実質的な編入事務は四年四月二日)預かり支配を解かれ、旧直領は兵庫県の管轄下にはいった。なおこれより先、十月二十七日に飯野藩の摂津にある分轄地(飛び地)が公収され兵庫県の管轄に編入された。これは十月五日に保科氏の摂津・近江・丹波三国にあった分轄地が上総国に移されたためで、とくに他藩にさきがけて廃藩されたわけではない。
このようにして明治三年末には市域において兵庫県の管轄下にはいってないのは尼崎・麻田・篠山・小泉の諸藩の旧領だけとなった。