封建領主の消滅

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 それでは最後まで解体されずに残った四藩はその後どういう経過をたどるか。地もとの尼崎藩・麻田藩のほか篠山・小泉両藩の分轄地が残っていたが、いよいよ明治四年(一八七一)七月十四日廃藩の勅令が下った。ここに尼崎藩以下はそれぞれ県に移行し、尼崎県・額田県などと名称を変えた。
 しかしこの旧藩から移行した諸県はまったく一時的な存在にすぎなかった。十一月二十日には太政官布告によって諸県は廃され、兵庫県に統合されることとなっている。その布告にもとづいて、これらの諸県の兵庫県への統合事務は五年一月から二月にかけておこなわれた。すなわち一月十三日篠山県の分轄地が、同十九日には麻田県が兵庫県に編入された。ついで二十一日には小泉県の分轄地が、そして最後に二月十日に尼崎県が兵庫県に編入される。
 これまでの兵庫県は飛び飛びの村の総称にすぎなかったが、ここに兵庫県に混じって存在していた旧藩から移行した諸県は、すべて兵庫県に移行し、兵庫県は完全に西摂・北摂の五郡(川辺・武庫・菟原・八部・有馬)の「地域」を意味する県となった。それはとりもなおさず封建領主たちの最終的解体を意味した。