近代のはじまり

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慶応三年(一八六七)の大政奉還から明治二年(一八六九)の版籍奉還へ、さらに四年の廃藩置県へと、明治維新は急テンポで進行していった。封建領主支配の錯綜していた宝塚市域の村々が整理されて、近代国家体制のもとに兵庫県が成立し、旧支配関係が完全に一掃されることになった。宝塚市の近代もまた、これを出発点として展開してゆくことになる。しかしその道は決して平たんな道ではなかった。
 まずここでもう一度市域の幕末期における支配関係をみてみよう(『第二巻』五五三ページ表参照)。北部の西谷地区は麻田藩の波豆村を除いて、上佐曽利・下佐曽利・長谷・大原野・境野・玉顔・北畑・南畑の八カ村は幕府直轄領で、高槻藩預かり地であった。他方南部では、幕府直轄領は見佐村一村で代官斎藤六蔵支配地であり、それに一橋領の安場・小浜(こはま)・安倉(あくら)(一部)・中山寺・山本・平井の六カ村、田安領の安倉村と、旗本渡辺氏領の中筋村が一村ずつで、あとは尼崎藩領の伊孑志(いそし)・小林(おばやし)・蔵人(くろうど)・鹿塩(かしお)の四カ村、丹波篠山藩領の川面(かわも)村、大和小泉藩領の米谷(まいたに)村(一部)、上総(かずさ)飯野藩領の米谷村(一部)の一村ずつからなっていた。これらの所領関係のうちで、まず大政奉還を契機に維新政府がその支配権力を拡大してゆくなかで、漸次兵庫県へ統廃合されていった。