大政奉還への道

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幕藩体制は開国を契機に危機的状況を示していた。尊攘運動と公武合体運動の大きく揺れ動くなかで幕府は弱体化し、薩・長の武力倒幕運動がたかまり、慶応三年十月十四日、岩倉具視は薩・長両藩に討幕の密勅をくだし、同じ日将軍慶喜は大政奉還を願いでた。これによって公議政体の理念が実現され武力倒幕運動の名分を封じ、将軍存続の望みをたくしたのである。
 こうした中央政界での紛糾のなかで、一般民衆は米価をはじめ諸物価の騰貴に苦しみ、これに触発されて百姓一揆や打ちこわしが各地に起きた。その闘争の規模と広さと深さとは、未曽有の事態となった。阪神地方においても、慶応二年五月、兵庫・西宮・灘・伊丹などの酒造地帯では、賃労働による生活困窮が都市打ちこわしとなって暴発した。さらに翌三年十一月には、長州藩兵が蒸気船で西宮浜に上陸し、それぞれ西宮から伊丹までの近郷村々に分宿し、やがて京都目指して進んでいった。つづいて薩摩・土佐の倒幕軍も京都へのぼっていった。政局はさらに混迷し、それはまさにクーデター前夜の緊迫した様相を示していた。
 こうした幕末の情勢のもとで、ええじゃないか踊りやお札参りがひろがっていった。踊り狂う群衆が街道をあちこち往来した。それはゆううつな毎日が一新して、世の中が改まることを願う気持を反映していた。市域の村々でもひろがり、とくに安場・安倉・山本・平井村などの一橋徳川氏領の村々でもお札参りのおこなわれたことが記録されている。お札が降った家に供え物を届けて酒食のもてなしをうけ、「ええじゃないか」の囃子(はやし)をもって歌をうたい、乱舞した(『第二巻』五九五ページ参照)。

写真1 お伊勢まいりの群衆図
神仏降臨 街の賑(神宮徴古館農業館所蔵)


 このあいだに中央では倒幕計画がすすみ、薩・長の大軍はぞくぞく上方に集結した。そして十二月九日、こうした世上の混乱のうちに大政奉還の勅許がくだり、王政復古の大号令が発せられ、ここに維新政府が発足した。