大政奉還により総裁・議定・参与三職による臨時の中央政治機構が成立した。しかし政府内部ではなお討幕・公武合体の両派が対立し、討幕派が優位にたって前将軍慶喜に辞官、納地が命ぜられ、ここに幕府はまったく政権の座から追放されることになった。
しかし薩・長に反発する旧幕府隊と会津・桑名の藩兵は、薩・長の討幕派と慶応四年元旦、鳥羽・伏見で一戦をまじえ、旧幕府軍が破れて、慶喜はひそかに大阪を脱出した。そして正月七日には慶喜追討令がだされた。
鳥羽・伏見の戦いに勝利をおさめた政府は、直ちに幕府直轄領を没収し、慶応四年正月二十二日には、兵庫を中心とする旧幕府領を直轄するため、兵庫鎮台がおかれ、二月二日に兵庫裁判所と改称された。このとき代官支配地と一橋・田安両領ならびに賊徒随従の旗本の知行所を没収し、いったん政府の管理下においたあと、二月五日にこれを尼崎藩・三田藩に当分の間取締りが命じられた。市域では代官支配地の見佐村が尼崎・三田両藩の管理下にはいり、高槻藩預かり地の直轄地もいったん没収のあと、代官地と同じくそのまま高槻藩預かり地とした。
しかし尼崎・三田・高槻藩管轄といっても、これはあくまで経過措置としてとられたもので、見佐村は二月十九日に兵庫裁判所に移管された。そして兵庫裁判所は五月二十三日に兵庫県(第一次)と改称された。
それと同時に万石以下の旗本領・公卿領・寺社領は、もよりの府県に編入されることになったが、朝廷に帰順した旗本は特別措置として旧知行所をひきつづき領有することが許された。そして帰順しなかった旗本領は没収され、帰順した旗本は新政府のもとで中下太夫に任じられた。中筋村の旗本渡辺氏は中下太夫としてとどまった。
その後七月十日に一橋・田安両徳川家は「藩屏(はんぺい)の列」に召し加えられ、旧領地の復帰が許されたので、同月二十五日に尼崎藩取締まりのもとにあった安倉村(一部)は田安領に、小浜村など六カ村は一橋領に復帰することになった。