藩籍奉還と藩知事

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あけて明治二年正月、薩長土肥の四藩主は連署して版籍奉還の建白書を提出し、それにつづいてほとんどすべての藩主が奉還を願いでた。尼崎藩では翌二月にいち早く奉還を申しで、つづいて飯野・小泉・麻田・篠山などの諸藩も願いでて、ともに六月二十日に奉還が勅許され、各藩は旧来領知した藩の藩知事に任命された。
 このように藩は政府直轄領たる府県と形式上は同列の地方行政区となったので、府藩県三治の制といわれる。実質的にはまだ統一的地方制度が実現したわけではなかったが、藩制は一律に変革された。藩知事の家禄は旧藩実収石高の一〇分の一と定められ、その家計は藩財政とはっきり分離された。同時に公卿とともに、大名という旧来の身分呼称は廃止され、両者あわせて華族とされた。旧家臣は士族・卒ともよばれたが、旧藩主との主従関係は制度上たちきられた。個別封建領主制は否定され、天皇統治の支配のもとにはいった。しかし藩知事は世襲とされ、藩政は藩知事が任命する藩官僚が担当したが、かれらの多くは旧藩士であり、藩兵も存置されたから、藩政には府県とは異なった独自制が残されていた。
 さらに明治二年十二月十四日には、本領を安堵された恭順派の旗本領もすべて上知され、これらの旗本には禄制を定めて現米が支給されることになった。このとき、市域の旗本渡辺氏領の中筋村が兵庫県に編入された。翌三年正月十日には一橋領の廃止が公布されたが、市域の一橋領がじっさいに兵庫県に接収されたのは三月十二日であった。また正月十三日には田安領の廃止がきまり、安倉村(一部)は四月十三日に同じく兵庫県に接収された。また十月には飯野藩が摂津の川辺・豊島・有馬・能勢四郡にある所領を上知され、関東においてその代地が与えられることになり、米谷村の飯野藩領も兵庫県の管轄となった。
 こうして県はすべての旧幕府領・旗本領・私藩領の飛び地を整理して、管轄することになった。そして政府は直轄領を拡大しつつ、その行政組織の整理・再編をはかった。しかしその貢租制度を中核とする封建支配の体制は、各藩領と同じく、旧幕時代そのままにつづいた。

写真4 尼崎県庁印
(小林土地株式会社所蔵)