市域周辺での農民一揆

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藩が崩壊寸前にあった明治二年、政府はまだ全領土を支配したわけではなく、それだけに政府の財政収入は中央政府をまかなうには、じゅうぶんでなかった。このため、いきおい農民から貢租を収奪してゆかざるをえなかった。政府がとなえた「御一新」に期待をかけていた農民は、この重圧に失望し、新政反対、貢租軽減の要求をかかげて、一揆にたちあがったのである。
 この時期に日本全国で農民一揆が頻発し、その一揆の件数は二年に四〇件以上、三年にも三〇件以上にのぼった。川辺・有馬・多紀三郡の村々でも、明治二年末に一揆が続発したと指摘されている。しかし宝塚市域ではこれまでのところ史料が残されていないので正確に把握できないが、周辺村々の状況からみて、ほぼ同様の動きがあったと推測される。ただこれらの一揆は、統一的な指導と組織を欠いた突発的なものではあったが、政府としても差し迫った課題として、その解決を迫られていた。