これに対応して、政府はいちだんと権力の集中強化をはかるため、藩制の廃止に着手した。まず明治四年二月に薩・長・土三藩兵からなる一万の親兵を東京に集中し、七月には三条・岩倉以外の公卿・大名出身者を政府から排除し、西郷・木戸・板垣・大隈を参議とする、薩長土肥出身の藩閥官僚で政府を固め、在京の諸藩知事を召集して廃藩置県を断行した。さきの版籍奉還が藩主の出願の形式をとったのに対し、これは一方的な勅命であった。しかも幕藩制から引きついだ藩そのものの否定であった。そのうえこれが一藩の抵抗もなく実現できたのは、すでにのべたように支配体制を根本から揺り動かしていった農民一揆の高まりがあったからであり、さらに諸藩がすでに体制的に弱体化し、財政窮乏に追いこまれていたからであった。そして藩知事・士族の俸禄は保証され、藩債は政府が肩代わりするなどの措置を通じて、藩体制への政府の介入・統制がある程度進行していたからであった。
廃藩置県によって二六一の藩が廃止されて県となり、それまでの政府直轄の三府四〇県とあわせて三府三〇二県がおかれた。藩知事は廃官となり、東京府へ移住が命ぜられたが、旧藩の大参事以下の職員はそのまま残留して執務するよう命じられた。市域でも、これまでの兵庫県管轄地のほかに、尼崎・麻田・篠山・小泉四藩の藩領があったが、これらの諸藩もそれぞれ尼崎県・麻田県・篠山県・小泉県の管轄にはいり、各県の分轄地としてとどまった。
しかし十一月二十日に、太政官布告で府県の全国的統廃合が布達された。ここにはじめて旧領知関係は一掃され、「一円管轄仰せ出され候事」として、名実ともに廃藩置県の偉業が達成された。これによって全国的に三府三〇二県に整理された。それは単に府県の数が減少したばかりでなく、それまでもよりの府県に管轄地として残されていた飛び地が統合されて、完全な「一円管轄」の実現をみたのである。宝塚市域の前記の尼崎・麻田・篠山・小泉四県分轄地も廃止され、すべて兵庫県に統合された。
しかし、廃止された各県の分轄地が、じっさいに兵庫県への移管手続を完了するまでには、さらに二、三カ月を要した。篠山県は翌五年正月十三日に、麻田県は同月十九日に、小泉県は同二十一日に、そうしてさいごに尼崎県が二月十日にいたり、それぞれ移管の手続を完了したのである。ここにはじめて摂津国川辺・武庫・菟原(うばら)・八部(やたべ)・有馬五郡を一円的に管轄地とする、いわゆる第二次兵庫県が成立することになった。このとき、すでに明治四年十一月十五日県令に任命されていた神田孝平が、この第二次兵庫県の初代県令となった。