この戸籍法の規定にしたがって、明治四年八月管内の区画を定め、六四区に分けて、区ごとに戸長一名をおいた。ただし神戸・兵庫・西宮は人口も多く、重要な区であるため、戸長のほかに副戸長をおいた。
兵庫県管内のこの六四区制は、『兵庫県史料』によると、明治四年八月十四日、すなわち廃藩置県以後に制定されたとしているが、じっさいにはおそくとも五~六月には区制が実施されていたと思われる。そしてこの六四区制下における宝塚市域の川辺郡村々は表2のとおり、第二五・二八区に属していた。
表2 明治4年8月64区制下における宝塚市域所属村々
第25区川辺郡 | 戸長1 | 中山寺村・山本村・同丸橋・口谷村・中筋村・平井村・安倉村・小浜村・米谷村・安場村 |
第28区川辺郡 | 戸長1 | 南畑村・北畑村・玉瀬村・境野村・大原野村・芝辻村・長谷村・下佐曽利村・上佐曽利村・香合新田 |
『兵庫県史』戸口編による
なお兵庫県で六四区制がとられたのと同時に、尼崎藩においても戸籍編製のために区制を定めたと思われるが、その点確かなことはわからない。しかしおそくとも四年七月に尼崎藩が尼崎県となったころには、その管下に区制を実施していたことは確かである。そして表2に示されていない武庫郡下の鹿塩村・蔵人村・小林村・伊孑志村・川面村・見佐村は尼崎県の管下の区制に入ったが、それが何区に編入されたかについては、今のところ不明である。
その後十一月に、廃藩置県がおこなわれて、尼崎県(藩)は廃せられたが、摂津国武庫・川辺・菟原・八部・有馬の五郡の旧尼崎県管轄地は、なおしばらく兵庫県管轄尼崎出張所何区という呼称でよばれ、明治五年二月府県の大廃合がおこなわれて摂津五郡を管轄する兵庫県下(第二次)の誕生をみた。これによってそれまでの兵庫県・尼崎県・三田県など別々に設定されていた区制は廃止され、新たに県下を五〇区に分画した。武庫郡は第一八―二二区、川辺郡は第二三―三九区に分け、各区に戸長がおかれた。市域の村々の所属は表3のとおりである。このとき明治四年まで尼崎県に属した武庫郡下の鹿塩村・蔵人村・小林村・伊孑志村・川面村は第二〇区に、見佐村は第二一区に属した。これによって、兵庫・尼崎両県にまたがって散在していた市域村々は、近世以来の交錯した支配関係が一掃されて、統一政権にふさわしい近代的地方行政機構が成立した。
表3 明治5年2月摂津5郡50区制下における宝塚市域所属区番
第20区 | 戸長1 | 武庫郡広田村ほか13か村 (鹿塩村ほか4ヵ村を含む) |
第21区 | 戸長1 | 〃 西昆陽村ほか11ヵ村 (見佐村を含む) |
第33区 | 戸長1 | 川辺郡中筋村ほか6ヵ村 |
第34区 | 戸長1 | 〃 小部村ほか16ヵ村 (山本村ほか4ヵ村を含む) |
第37区 | 戸長1 | 〃 北畑 |
南畑立合新田ほか10ヵ村 | ||
第39区 | 戸長1 | 〃 波豆村ほか13ヵ村 |
『兵庫県史』戸口編による
さらに同じ五年八月二日には、この五〇区制が改編整理され、あらたに全県を通じて一九の区に改編された。これによって、宝塚市域関係の村々の所属は表4のようになった。ここに至って版籍奉還・廃藩置県をはさんでまことにめまぐるしく改変をかさねてきた当地方の行政区画もいちおうの整備をみることとなったのである。
表4 明治5年10月摂津5郡19区制下における宝塚市域所属村々
区 分 | 役所の位置 | 市域所属村名 | 従前の区分 | 合計村数 | 石 高 | 反 別 |
---|---|---|---|---|---|---|
第8区武庫郡 | 下大市村 | 鹿塩村・蔵人村・小林村・伊孑志村・川面村・見佐村 | 第20・21区 | 25ヵ村 | 石 9,276.002 | 町反畝歩 1.047-8-8-20 |
第13区川辺郡 | 鴻池村 | 安倉村・小浜村・米谷村・安場村・中山寺村・中筋村・山本村・平井村・口谷村・丸橋村 | 第32・33・34区 | 32ヵ村 | 14,176.686 | 1,471-1-2-19 |
第15区川辺郡 | 河原村 | 南畑北畑立合新田・南畑村・北畑村・玉瀬村・境野村・大原野村・芝辻新田・長谷村・下佐曽利村・上佐曽利村・香合新田・波豆村 | 第37・38・39区 | 38ヵ村 | 7,396.814 | 745-3-2-01 |
〔注〕1.明治5年10月兵庫県布達第258号による
2.役所の位置は明治12年『兵庫県統計書』、合計村数・石高・反別(区の総計)は『兵庫県史』戸口編による
3.明治7年5月、口谷・丸橘両村を廃し、山本村へ合併
これは近代的な統一政権にふさわしい行政組織網の確立であり、明治政府が近代的な集権政治を確立していく過程に照応する変革であった。