兵庫県区制の特色

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行政区画のたび重なる改変のなかで、区制がたてられたが、明治四年までの各町村の行政は、江戸時代の旧慣のまま、庄屋・年寄のもとに運営されていたが、その行政事務は必ずしも円滑に運ばなかった。まず尼崎藩では廃藩置県直前の明治四年七月八日付の布令で、これまでの大庄屋を何組何箇村取締里正、庄屋を里正、年寄を村吏とそれぞれ改称し、同年十一月二十日の尼崎県廃止まで及んだ。一方兵庫県では同年八月管内を六四区に分け、続いて五年二月にこれを五〇区に整理し、それぞれ戸長をおいたことは前に述べたとおりである。しかしこれまでの庄屋・年寄などもすぐには廃止されず、戸長の職務もしばらくはこれら町村役人が代行している有様であった。ところが五年四月の太政官布告により、政府が庄屋・名主・年寄などの名称を廃止し、戸長・副戸長を設置することを命令したので、兵庫県は六月、庄屋・名主を戸長、年寄を副戸長と改め、ここに旧来の町村役人はまったく廃止された。それで初め戸籍事務を主として取り扱うためにおかれた正副戸長は、広く一般民政を管理するようになった。この新設の戸長と、すでに二月に各区におかれた戸長との混同をさけるため、区の戸長は年番として、何番区年番戸長と称することにしたが、まもなく八月、区が改編されて一九に整理され、それぞれ一名の区長がおかれたので、年番戸長の呼称はわずか数カ月で消滅した。
 かくて明治五年十月に、大小区制を法制化した。これは大体各府県に数個の大区、大区のもとに数個の小区をおき、小区は数町村を包括し、大区に区長一人、小区に戸長、町村に副戸長をおくたてまえであった。こうして大小区制という明治初年特有の地方制度が全国に普及していったが、兵庫県(摂津五郡)では、区が大区・小区に分けられることはなかった。兵庫県の区制は、他府県の場合のように小区を設けていない点で、いわば大区制に相当するものであり、しかも政府が大区に区長を設置することを認めたのに先だって、区長を設けていた。そして町村を行政上の末端単位と認めて区の下においた。この点大小区制をとっていった他府県では、最末端行政単位として小区を認め、旧町村を行政単位として認めなかった。しかし政治・経済・社会的に有機的共同体として存続してきた旧町村の地位を否認することには無理があった。この矛盾が、やがて大区・小区制を廃止させ、町村の地位はふたたび認めさせる形で、明治十一年の地方三新法へ移行させていったのである。この点を考えると、兵庫県では五年八月に大区制に相当する一九区制への改編がおこなわれ、小区が設けられていなかったことは、兵庫県の区制が町村を行政上の末端単位として認めていたことであり、この意味で三新法を先どりした特色あるものとして注目されるのである。当時の県令神田孝平の開明的な行政手腕であったと評価すべきであろう。