最初戸籍法によっておかれた区には複数の戸長・副戸長がいることになったので、区には区長をおきたいという各府県の要望があり、明治五年十月十日大蔵省達第一四六号によって、大区小区制が実施された。すなわちこれは、府県にいくつかの大区をおき、大区をいくつかの小区に分け、小区は数町村を包括するものとした。村はたとえば豊岡県第二〇大区第三小区味間(あじま)奥村とよばれ、この第三小区は右のほか味間北村・波多野源左衛門分・大沢村など一五カ村を包含していた。
大区には区長、小区に戸長、町村には副戸長・用掛をおくことになり、また町村内には約一〇戸に一戸の什長をおいた。区長・戸長の給料は、それぞれ区内と戸長管轄町村の負担であり、明治七年三月には、区長や戸長などは官吏に準じて扱われることになった。
大区小区制は戸籍の編成によって人民を掌握し、上意を下達するための、中央集権的官治行政の地方制度であることが明らかになった。藩制以来の郡―町村の地方行政組織は、府県―大区―小区となったのである。