町村の合併

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大区小区制で制度上町村を廃止し、小区を行政上の最小単位としたのは、町村の規模が狭小であり、町村費を節約し住民の負担を軽減するためであったが、同じ理由による町村合併促進の方針は、明治六年十二月大蔵省達第一八六号によって「従来独立ノ村落タリトモ戸口不多反別稀少ノ分ハ便宜合併不致候テハ毎事無用ノ労費ヲ掛区入費並村費モ相嵩(かさみ)人民ノ不便利ト相成候村々ハ漸次合併」することと明示され、明治七年以降町村合併が全国的に進んだ。
 宝塚市域では、明治七年五月二十日山本・丸橋・口谷三カ村が合併し山本村に、翌八年四月には大野新田をも合併して山本村はさらに大きくなった。また十年一月には、南畑・北畑・南畑北畑立合新田の三カ村が合併し、切畑村となった。