大区小区制の矛盾

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政府は、町村費節約のため町村合併の必要を認めながらも、明治八年に至り、合併促進の方針を一転した。その理由は、およそつぎのように考えられる。
 大区小区制によって、行政上の最小単位は小区となり、従来の町村は地方制度上認められなくなり、小区内の一「村落」となってしまった。これは町村の規模が小さいという理由によるのであったが、しかし町村は、藩政下における行政村としての長い歴史を有するとともに、また、その人々は生産と生活において緊密に協同し、村は一つであるという共同の意識と規範を有する社会的経済的統一体としての自然村であった。このような自治的団体としての町村は、急速な地方制度の改革によっては、容易に消滅するものではなかった。
 したがって地方官は、戸籍の編製や租税徴収・民費課出など一般行政に、制度上認められなかった町村を利用せざるを得なかった。大区小区制の有するこのような矛盾が、町村合併促進の政策を転換させたのである。
 明治八年二月八日内務省達乙第一四号は、「宿駅廃合並村落合併ノ儀ハ人民格別便利ヲ得候儀有之歟(カ)或ハ実際不得已事故有之外ハ以来廃合及ヒ改称等不相成儀ト可心得」と達し、また十年九月十八日同乙第八三号では、「何等ノ事情有之共区画ノ改正及ヒ郡村町ノ分合等ハ都テ不相成」として町村合併を抑止した。
 また明治九年十月十七日布告の「各区町村金穀公借共有物取扱土木起功規則」は、区および町村が公共事業をおこなう場合の公借金取締まりを目的としたものであるが、これは大区小区制が制度上無視した従来の町村の自治的会合である寄合と村総代の法人格を、事実上認めたものであった。
 政府は、大区小区制がその内にもつ矛盾を解消するため、町村合併の促進を転換したり、町村を自治団体として事実上認める方針をやむを得ずとったのであるが、矛盾の全面的解消をねらった地方制度の改正は、明治十一年におこなわれることになる。