ところで、兵庫県の場合は、第一節で述べたように他府県と事情を異にした。摂津五郡を県域としていた当時の兵庫県は、大区小区制実施にあたり、独特な方針をとり、小区を置かなかったのである。
明治五年十月十日大区小区制の実施に先立つ同年八月、兵庫県は五〇の区を一九区に整理し、各区に区長をおいた。しかし調査ふじゅうぶんな点があったので、同年十月県布達第二五八号別冊により、改めて一九の区画を定めた(一三ページ参照)。
兵庫県の区は、飾磨県や名東県・豊岡県などで実施された大区小区制の大区に相当するもので、区に区長、町村に戸長・副戸長をおいた。したがって行政上の最小単位は、従来の町村であって、他府県の場合と異なり、その自治的団体性を認めており、町村は自然村であるとともに行政村であった。この点は明治十一年の地方制度改正の考え方を先取りしていたということができよう。
兵庫県は、県令神田孝平の方針により独特の区制を実施するとともに、全国にさきがけて地方民会を開かせようとして、明治六年十一月二十六日に、「民会議事章程略」と「町村会議心得」とを布達した。町村会をはじめ、戸長を構成員とする区会、区長を構成員とする県会を順次開設しようとしたのであった。町村会は任期一年の議事役と、戸長または副戸長の議長とによって構成されるが、議事役は一六歳以上の戸主で、その町村に不動産を所持するもの(借地の上に家屋のみを所有する者を含む)によって選挙されることになっていた。町村会は町村の重要事項を審議したが、議長が不都合と考えたときは、県の指揮をうけることができ、また町村会の決議が県によって認められ実施に移された後でも、政府の布告や規則が出て、これに抵触する場合は、速やかに改めなければならなかった。