第一三区安場村七二名連署捺印の「明治九年四月 村中申合条約」が保存されているが、その最初につぎのように記されている。
「村中申合条約 一当村之儀兎角前年ヨリ村中不和合ニテ銘々一己之了簡ヲ申張或ハ自村他村之弁別ヲ失ヒ村内相談事ヲ他村之者ニ申示シ自佗(他)之差別ヲ取乱候義甚以不条理之事柄ニ付向後改正致シ何事ニヨラズ正副戸長ヲヨヒ村会議事役集議之上致決定候事件ハ聊違背致ス間敷候事」つづいて「一租税ハ不申及村費割附都テ何ニヨラズ計算向ハ村会ニヲイテ正副戸長議事(役(欠カ))集会之上精算半期毎立会可申」とある。
これによってみると、安場村では明治九年四月現在すでに村会が成立しており、村には多数決という新しい原理によって運営される村会と、従来の全員了解を原則とする村中総寄合とがあって、両者の間の調整がじゅうぶんでなかったように思われる。そこで村会における決議事項は、村民すべてが守らなければならないことを、従来の村中総寄合で申合せることになったのである。
安場村が従来の総寄合と村会とを有したことは、村が自然村であるとともに行政村であったことを示している。また、この村の人は、自村と他村との弁別を失って、村内の相談事を他村の者に聞かせたりするという点に関しては、一般的に考えられる事情のほかに、この村の家々が、川面村の家々と入り組んだ状態にあり、街道沿いの家々は一軒ごとに所属する村を異にするという特異な居住形態によるものであろう(『第二巻』巻頭写真9「川面・安場村入組村絵図」および四八九ページ写真192「川面・安場村入組絵図」)。