明治十三年連合町村戸長制

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明治十三年六月二日県布達甲第八四号で戸長管轄区域が狭小であるときは、「限アル地方税ヲ以其費途支ユルヲ得ス」として、「市街ハ戸数千戸以上三千戸、村落ハ戸数三百戸以上六百戸迄ヲ標準トシ一町村乃至数町村ニ戸長一員ヲ置クヲ本旨ト」し、なお「地理人情ノ如何ヲ斟酌シ其聯合区域ヲ広ムルハ妨ケナキモノト」して連合区域の拡大をはかり、十三年七月一日から施行することにした。連合した町村には、戸長事務を助けるものとして総代などがおかれることになった。
 この時期の町村の連合についてはわからないことが多いが、宝塚市域内の資料もきわめて少ない。ただ明治十四年一月一日現在の川辺郡第二二戸長役場各村戸数人口表があり、これによれば、第二二戸長役場は波豆村・長谷村・芝辻新田・大原野村・境野村の連合町村戸長役場であり、同役場管内戸数は三八〇戸、人口一六三八人であった(表5)。
 武庫郡では、十三年六月二十四日付武庫郡長布達(武庫郡津門村文書)で、鹿塩村(戸数四五)・蔵人村(一八一)・小林村(二一八)・伊孑志村(五八)・川面村(一四一)・見佐村(二)の六カ村(六四五)を連合させ第七組戸長役場をおくとしている。
 明治十四年六月九日の県布達第九四号は、前年の方針を変更した。「従前ノ聯合区域ニシテ差支候町村ハ本月三十日限リ」願出てその区域を改めてもよい。そして戸数一〇〇戸以上の町村は、願出によって一町村一戸長役場を設けることができるが、一〇〇戸未満の村は他町村と連合して戸長役場を設置し、戸長役場所在の町村名を冠した何々組戸長役場とよぶことにした。連合町村戸長制と単独町村戸長制とが併用されたのである。これは前年の戸数三〇〇戸以上六〇〇戸までという基準の適用が困難であったからであろう。
 この時、前述の川辺郡第二二戸長役場は、境野組戸長役場となり、香合新田・上佐曽利村・下佐曽利村は、木器(こうずき)村・下槻瀬(しもつきせ)村・上槻瀬村・市之瀬村・波豆川村(以上三田市)とともに木器組戸長役場管下となった。その他の村については、まだ資料を発見していない。
 

表5 明治12・14年西谷地区の戸数・人口

村   名明治12年1月1日明治14年1月1日
 戸 人 戸  人
上佐曽利66302
下佐曽利45213
香合新田625
波  豆53247
長  谷5524958249
芝辻新田627626
大原野190799190815
境  野7428373301
玉  瀬52224
(北  畑)(27)(129)
(南  畑)(63)(289)
(立合新田)(6)(19)
切  畑96437
合  計5902,5593801638

龍見赳所蔵「川辺郡第22戸長役場各村戸数人口表」による
〔注〕切畑村は北畑・南畑・立合新田の合計